布田の日活撮影所

京王線の布田駅から徒歩約20分のところに、日活の撮影所がありました。デビュー当時は、最寄りの初台駅から京王線に乗って、通勤していました。電車を降りてからは、ずっとあぜ道です。あの頃は撮影所まで畑や田んぼが続いていて、道路も舗装はされておらず、悪路を歩いて通ったものです。撮影所は白亜の殿堂というには大げさかもしれませんが、当時としてはかまぼこ型のアーチが美しい、真っ白の斬新な建物でした。私がデビューした少し前に建設されたばかりで、当時としては日本最大級の規模を誇る撮影所でした。

撮影所に着いたらまず、演技課というところに行って、その日の仕事の確認をしなければなりません。当時は、監督ごとにチームに分けられていました。例えば、牛原組とか、西河組など、監督に組をつけて呼んでいたのです。撮影が行われるステージも第1~第10ステージまでありましたが、俳優やスタッフはその日、自分の組がどこのステージで仕事をするのかを、演技課の掲示板を見て確認していました。週に2本のペースで映画が作られていた時代ですから、それはそれは撮影所も賑わっていたものです。

ところで、当時の日活は新人発掘に力を入れていたこともあり、俳優も若手が中心でした。スタッフにも若い人が多く、撮影所は全体的に明るくて活気の溢れる雰囲気でした。撮影所で働くすべての人が、よりよい作品作りに前向きに取り組んでいました。その上、俳優もスタッフもみんな仲間という感じで、とても楽しく仕事をしていたのを覚えています。そんな明るく楽しい雰囲気の中でしたので、良い作品もたくさん生まれたのではないでしょうか。

そういえば、撮影所でのエピソードを一つ思い出しました。デビュー当時、京王線で通勤していた頃、布田駅から撮影所までのあぜ道にカエルがうじゃうじゃいたことがありました。避けながら歩かなければならないほどのカエルなので、都会の人には厄介だったかもしれませんが、田舎育ちの元気な少女にとってはヘッチャラです。ある日、歩きながらカエルを何匹か拾って、ポケットに忍ばせて撮影所に行ったことがありました。たまたま早朝で、演技課のスタッフはまだ誰も出勤していません。私はそぉーっと、デスクの引き出しにカエルを忍ばせて、物陰に隠れていました。スタッフたちのカエルに驚く様を見たくて…当時、まだまだ子供で完全に学生気分でした。私の仕業だと気づかれなかったはと思うのですが、この場を借りてお詫びします。それにしても、撮影所はこんな悪戯にも寛容な雰囲気だったのです。

次回は、初めて映画に出演した時のエピソードをお話しします。

日活の大入袋

当時、日活では映画の興行成績が良かった場合に、大入袋が配られました。それは、作品ごとに配られるものですが、その制作に関わっても関わらなくても、日活の俳優のみならずスタッフ全員に配られていました。戦後の日活は大盛況でしたので、年に何回も配られたものです。大抵は、大入袋に100円硬貨が一枚です。日活に入ったのが1957年でしたから、ちょうど日本で100円硬貨が発行された年だったと記憶しています。当時、映画の入場券が150円程度でしたから、100円の価値は今のだいたい10倍くらいでしょうか。

北海道の田舎からポッと出てきた、世間もよくわからない少女が銀幕デビューを果たしたわけです。あの頃は、目が眩むほどに忙しい毎日を送っていました。そんな中、自分が携わった作品で大入袋を手にした時の感動は、忘れられないものです。そして、その大入袋は役者としての自信を、大いに与えてくれるものでした。

ところで、たった一度だけ大入袋に大金が入っていたことがありました。実は記憶が曖昧で、残念ながら具体的な金額を覚えてはいないのですが、確か5が付いていたような気がします。ですから、500円なのか、何千500円なのか、あるいは5,000円なのか。その当時、制作スタッフの人たちが、上着と下着、それに靴まで揃うと大喜びしていたのを覚えています。ちなみに当時の新卒の初任給が1万円程度でしたから、5,000円ということはないかしら…いずれにしても日活の全社員に配られたとすれば、相当な金額になるはずです。それは、凄まじくヒットした作品に対するものだったに違いありません。そして、それは間違いなく石原裕次郎さんが主演した映画の大入袋でしょう。なぜなら、裕ちゃんが出演する作品は、どれもこれも大当たりだったのですから。

裕ちゃんは大先輩ですが、私にとってはお兄ちゃんみたいな存在でした。俳優としてはもちろん、人間的にも大変魅力のある方でした。優しくて、強くて、カッコ良い。実際、私に兄はおりませんが、こんな三拍子の揃ったお兄ちゃんがいたらいいのにと、ずっと思い描いていたような方でした。石原裕次郎さんの魅力については、また別の機会にお話しします。

戦後の映画産業

戦後の娯楽といえば、映画でした。それを証拠に、映画館は連日、大入りの満員どころか立ち見の人でぎゅうぎゅう詰めの状態でした。今も昔も娯楽の街といえば新宿ですが、戦後には今よりもたくさんの映画館がありました。劇場の中だけでなく前にも、常に人が溢れかえっていたものです。戦後の復興の中で、銀幕の世界が人々に夢や希望を与えていたのでしょう。そんな活気あふれる戦後の映画産業で、中心的な役割を担っていたのが、他ならぬ日活です。

その日活の花形スターといえば、筆頭は間違いなく石原裕次郎さんです。裕ちゃんは国民的な大スターでしたから、女性だけでなく、男性も憧れる存在でした。ある時、人で溢れる劇場の前を通ったところ、裕ちゃんの映画を見終わったばかりの人が、本人になりきってトレンチコートを着て、そっくりの歩き方をして劇場を後にしていました。それが、一人や二人ではないのです。その光景を見て、うれしくて、思わず微笑んでしまったのを覚えています。それは、裕ちゃんと同じ映画界にいて、人々に夢を与える仕事に携われることを、誇りに思える瞬間でもありました。

ところが、戦後の映画産業が活況だった時代は長くは続きませんでした。テレビの普及が進むにつれて、娯楽の中心が映画からテレビへと急速に変化していったからです。それは、まるで日本の復興のスピードについて行っているかのようでした。実際、私自身もテレビドラマへの出演意欲が湧いてきた頃と重なるところです。

1963年映画産業が斜陽になる少し前に、一足先にフリーになりました。5社協定もあり、なかなか難しいこともありましたが、そのお話はまた別の機会にしたいと思います。

上京してからの生活

『月下の若武者』のオーディションに合格して、1957年3月に生まれ故郷の室蘭から東京に引っ越ししてきました。17歳になりたてのまだまだ世間も知らない娘でしたので、両親からは2番目の姉と一緒に暮らすことを条件に、上京が許されました。実は三姉妹で、4つ上の長姉はすでに結婚をしていましたが、2番目の姉は室蘭で就職をしていたため、まだ実家に一緒に住んでおりました。歌を得意としていた姉には、東京で本格的に歌のレッスンを受けて歌手になる夢がありました。そこで、二人は夢と希望を抱いて大都会、東京へと移り住んだのです。

恵比寿の間借りを経て、半年後には初台のアパートを二部屋借りました。京王線沿線ですと、布田にある日活撮影所に通勤するのに便利でした。姉と同じ部屋では窮屈でしたが、隣同士だと何かと心強かったものです。特にありがたかったのは、姉が料理上手だったので、食事の心配をすることなく暮らせたことでした。

ところで、北海道の田舎から出てきた私にとって、東京の混雑した電車に無理やり乗り込むなんて、なかなかできるものではありませんでした。一度、乗り込みに失敗して、メイクボックスごと電車とホームの間に落としてしまったこともありました。他には、普通乗車券で急行に乗ってはいけないと勘違いし、ずいぶん電車を逃していたなんてことも…。こんなことの連続で、つくづく都会での生活の大変さが身に沁みていました。それでも、電車で通勤の必要がなくなるまでに、それほど時間はかかりませんでした。

当時は、映画が週に2本ペースで作られていた時代でしたから、『月下の若武者』に出演以降、おかげさまで順調に仕事もいただき、車で移動するようになったのです。ただし、本格的に俳優としての活躍をするのはもう少し後のこと。北海道弁がとれなくて、モデルの仕事をいただいておりました。ですから、映画で活躍するようになった当初は、モデル出身の俳優だと思われていた方が多かったようです。なお、モデルの仕事については、また別の機会にお話ししたいと思います。

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