密かに交際する方法

小髙と交際することになったものの、自由に会うことは難しい時代でした。銀幕の世界が、人々に夢と希望を与えるものである以上、俳優が私生活をさらけ出すことは好ましいこととされていなかったからです。日活においても、恋愛沙汰は極力控えなければならない風潮にありました。まして、所属する俳優同士が交際するとなれば、一大スキャンダルになりかねません。ですから、私たちは秘密裏に会わなければならなかったのです。

当時、小髙は車を持っていましたから、一緒に出掛ける時はもっぱら車で移動していました。彼の運転する車の助手席に乗っていても、目的地まで常にコートを被り、荷物のようになっていました。小柄な体だったからまだよかったものの、窮屈で仕方ありませんでした。大っぴらに会うことはできませんでしたから、デートの場所はもっぱら世田谷にある彼のアパートです。ちなみに初台の自宅からひとりで移動するときは、グリーンタクシーを使っていました。

二人で会う以外には、ごく一部の信頼関係の厚い日活の仲間同士で集まる方法もありました。グループ交際みたいに気が楽でしたし、怪しまれることもありません。当時、俳優仲間はお互いに協力しあってお付き合いをしていたものです。ところで、撮影所で一緒に仕事をしている時は連絡の取りようもありますが、ロケで離ればなれになることがある場合は、ひと工夫が必要でした。

例えば、宿泊先の旅館から電話を掛けようものなら、交換台を通じて話も筒抜けになりかねません。ですから、話口調は、あくまでもビジネスライクに用件だけです。でも、お互いに仕事で疲れているのに、若い二人が甘い言葉も交わせないのは辛いところ。そこで、暗号を使うことにしていました。お恥ずかしいけれど、お互いに愛情を持っていることを確かめるときは、「ラソ」と言いました。ちなみに、どうして「ラソ」なのかは謎です。「じゃあ、明日はそういうことで。ラソ。」などと言ったものです。こんな苦労をするなんて今では考えられないことですが、連絡を取り合うのが大変な時代でしたから、余計に恋も盛り上がるのかもしれませんね。

そんな窮屈な恋愛期間を経て、晴れて結婚したのはそれから約10年も後のことです。当時、俳優同士が結婚することは、ハードルの高いことでした。裕ちゃん夫妻も、しがらみが多くてなかなかゴールインできませんでしたが、私たちも同じような悩みを抱えていたのです。また、密かに交際していても、ある程度の時間が経てば、自然と周りが気付き始めます。ある時、記者たちが世田谷の自宅近くで待機していました。その時、小髙はどのような対応をしたのかは、また別の機会にお話しします。

夫、小髙雄二との出会い

夫である小髙雄二とは、日活で出会いました。彼はもともと俳優座5期生の劇団員でしたが、日活からの熱烈な誘いにより、1957年に移籍してきました。当時、日活撮影所の山崎所長が、1958年に公開された「陽の当たる坂道」で、小髙をどうしても登用したかったというのがその理由です。この映画の主演は石原裕次郎さんですが、裕ちゃんのお兄さん役として出演していました。実際、年齢も裕ちゃんの一つ上でしたが、私生活でも兄弟のように仲良くしていたのです。裕ちゃんとまこちゃん(北原三枝さん)と私たち夫婦は、仕事でもプライベートでも長年、交流をしてきましたが、その話はまた別の機会にすることにします。

ところで、初めて小髙と会ったのは、「知と愛の出発」(1958)で共演した時です。私はアルバイトの少女役で、セリフも一言、二言でした。ロケ現場はヨットハーバーで、彼と私はデッキにいました。駆け出しの頃でしたから、緊張が先だってしまって、余裕なんかありません。でもなぜだか、彼の指の美しさだけが脳裏に焼き付いていました。初めはただそれだけのことで、初心な私に恋愛感情が芽生えることはありませんでした。

一方、小髙はそれよりも少し前に、撮影所の演技課の廊下にある大きな鏡の前で、たまたま私を見かけることがあったそうです。野球帽をかぶった少年のような姿をした少女が、鏡の前で一生懸命にポーズをとっていたのが、とても愛らしく印象的だったとか。その時から、どうやら私の存在を意識して観察していたらしいのです。そんなある日、演技課で小髙の世話役だった森さんから連絡がありました。小髙が体調を崩し入院したので、どうしても見舞いに行ってほしいというのです。小髙は俳優座出身の大先輩ですから、断ることはできません。仕方なしに、恐る恐るお見舞いに行ったのを覚えています。

後から分かったことですが、彼は病弱であることを秘して仕事をしており、そのことを知っていたのは当時、森さんだけだったそうです。もしかしたら、彼は森さんだけには胸の内を明かしていたのかもしれません。きっかけがあれば、私との距離を縮めたいという思いがあったようなのです。 お見舞いをしてからというもの、小髙から積極的に連絡をもらう機会が増えて、徐々にお互いの距離が縮まりました。そして、ついに交際することになったのです。でも当時、スキャンダルはご法度でしたから、二人は密やかにデートをしなければなりません。携帯電話もない時代に、どのようにお付き合いしていたのでしょうか。この話は、次回に続きます。

モデルの仕事

オーディションに合格して日活に入社しましたが、演技の基礎もないゼロからのスタートでしたので、最初からそう易々と映画に出られるわけではありませんでした。「月下の若武者」ではセリフはたった一つだけでしたし、撮影に丸一日かかったものの、なんとか役割を果たせたようなものです。そしてもう一つ、私には演技ができるかどうかという以前に、北海道弁の訛りの問題がありました。そこで、標準語に慣れるまでの間、演技の勉強をしながらモデルの仕事をいただいておりました。

ところで、戦後は女性も進学する人が増えて、ほとんどが結婚するまでとはいえ、社会に進出する機会が増えつつある時代でした。その所為か、通勤や通学などでどのようなファッションが好ましいかなど、若い女性を中心としてファッションに対する意識が高まっていました。そんな中、女性誌が次々と刊行されていたのを覚えています。そのような時代の流れの中で、モデルとしての仕事の需要も多く、おかげさまで雑誌社などからたくさんのオファーをいただいておりました。当時は、電車で布田の撮影所まで通勤していましたが、撮影所の仕事が終われば、待機していた雑誌社の車で、撮影スタジオや撮影ロケの現場に向かうという毎日でした。洋服のモデルや、雑誌の表紙、あるいは取材を受けることもたくさんあって、目が眩むほど忙しくしていました。

また、モデルの仕事を通じて、日本の名だたるアーティストとの出会いがありました。今、振り返ってみても、とても贅沢ですし幸運なことです。例えば、写真家の第一人者であった秋山正太郎先生には、たくさんのポートレートを撮影していただきました。六本木にあった先生のスタジオへは、何度も通ったものです。それから、当時大人気だった中原淳一先生とも、多くの仕事をご一緒させていただきました。先生のアトリエでは、若い女性に人気のあった雑誌「ソレイユ」や「ひまわり」の撮影が行われておりましたので、アトリエに伺う機会も頻繁にありました。

このようにモデルの仕事を通じて、当時の最先端のファッションを知ることは、とても有意義でしたし、楽しいものでした。また、自分の身にまとうファッションが人々に影響を与えているのだと思うと、やりがいも十分に感じられました。その後、徐々に映画への出演機会が増えてきましたので、役者の仕事が中心になりましたが、できるだけモデルの仕事はしていきたいと考えていました。81歳になって活動を再開した現在でも、その気持ちは変わらないところです。

次回は、小髙雄二との出会いについてお話しします。

「青春の冒険」(1957)でのこと

この作品は、小林旭さんが主演の映画で、大人の世界にあこがれる高校生を描いたものです。デビューから間もない頃の出演で、その時の芸名は「清水マリ子」でした。ちなみに本名は鞠子ですが、鞠の字が複雑だったので、単純にカナに替えられたものです。のちに「まゆみ」になりましたが、そのお話はまた別の機会にすることにします。

さて、この作品では当時、同じ年ごろの役柄でしたから、等身大で演じることができました。デビュー作の「月下の若武者」とは違って、セリフも増えましたし、撮影所のみならず初めてのロケも経験して、気持ちも上がりました。ところが、ここではじめて役者としての壁にぶち当たるのです。実際は、壁だなんて大げさなものではなくて、今振り返れば微笑ましくも、お恥ずかしい話です。

それは、主役の小林旭さんに平手打ちをするシーンでのことでした。台本では、旭さんの頬を思い切り叩かなくてはなりません。でも、どうしても叩くことができないのです。だって、怖いでしょう?!デビュー前に、スクリーンで観ていた日活のスターが相手です。それに、それまで一度だって、人の頬を叩くなんてことはしたことが無かったのですから。何回も何回も挑戦して、それでもできなくて、とうとう泣けてきたのです。旭さんは「思いっきりやっていい!」と言ってくれたのですが、当時の私にはなかなか難しいことでした。

それでも役者として、ゼロからスタートしたばかりの頃でしたから、無理もなかったのかもしれません。結局、役に入りきれないから、平手打ちもできなかったのです。でもこの経験を通じて、役者としての覚悟が必要だということを、改めて思い知らされました。だからといって、覚悟がどれほどのものかを思い知ることになるのは、実はもう少し先のお話なのですが…。おかげさまで撮影は、周りのスタッフの温かな支えもあって、なんとか終了しました。旭さんは、ご承知のとおり背も高くて迫力のある役者さんです。それに、性格はとてもさっぱりしていて、撮影現場はいつも良い雰囲気でした。

そんなこんなで、周囲に支えられながら役者としての人生がスタートしました。しかし、まだまだ前途多難。この続きはまたの機会にお話しします。

デビュー作「月下の若武者」(1957年)

津川雅彦さんが主演する「月下の若武者」で、主役の相手役を募集するオーディションに合格したのが、デビューのきっかけでした。津川さんとは同じ年の早生まれ同士でしたし、主役はお殿様でしたから、てっきり、お姫様の役をいただけるものと思っていました。しかし、ふたを開けてみれば「遊女」の役だったのです。初めての映画出演で、お姫様の衣装に身をまとっている自分を想像していたものですから、ものすごくがっかりしたのを覚えています。

想定外だった遊女の役ですが、セリフはたったひとつ「不束者にございます」というもの…たったこれだけのために日活はオーディションを行ったのかと、少々戸惑いました。しかし、実際に出演してわかったのは、たったセリフひとつの撮影でも簡単ではなかったということです。映画のスクリーンでは、役者たちが演じている様が映し出されますが、観る側はその完成された映像が制作されるまでの過程を知ることはありません。布田の撮影所で行われた、たったワンシーンの撮影でしたが、準備から撮影までに丸一日を要しました。この映画は、映画界で初めて採用された「総天然色の日活スコープ」でしたので、スタッフの準備も実に入念なものでした。ライト、カメラ、小道具などの準備がすべて整うまで、現場はバタバタしていました。

田舎から出てきた少女は、なすがままにメイクをされて衣装を身にまとい、かつらをつけられて、所定の場所で長い時間、待機させられていました。初めてで訳が分からない中でしたが、見るものすべてが興味深いものでした。いざ、演じる段になってからも、ライトやカメラの調整が細かくされていたので、何テイク行われたのか、はっきりと覚えていません。緊張の中、ようやく撮影が終了して、重たい衣装やかつらを外した時の解放感は、今でもよく覚えています。映画の撮影は、たったワンシーンでも簡単ではないことを思い知らされました。

ところで、相手役だった津川さんとの共演は、この作品だけでした。津川さんも翌年には松竹に移籍され、その後フリーになられましたが、残念ながら接点はほとんどありませんでした。でも、この作品のお陰で役者の世界にはいることができましたから、津川さんとの出会いは私にとって特別なものです。一方、お兄様の長門裕之さんとは、日活の時代、そしてフリーになってからも交流がありました。長門さん夫妻との思い出は、また別の機会にお話ししたいと思います。

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