和田浩治さんとの共演は、1959年の「無言の乱斗」から始まって、1962年まで続きました。改めて保管している台本を数えたところ、計20本にもなりました。私が日活を離れたのが1963年でしたが、それまでにSPも含めて70本ほどの作品に出演しておりましたので、ヒデ坊とは3割近い作品を共演したことになります。
ところで、和田浩治さんの本名は和田愷夫(ひでお)さんなので、仲間内ではヒデ坊と呼んでいました。ヒデ坊は、石原裕次郎さんの風貌に何処となく似ているということで、スカウトされたそうです。裕ちゃんといえば、推しも推されもせぬ看板俳優でしたから、日活としては第二の裕次郎を育てたかったのかもしれません。シリーズものを作りたいという会社の方針によって、ヒデ坊のデビュー作「無言の乱斗」から相手役に選ばれました。
ところで、「無言の乱斗」での初めての撮影シーンは、確かラブシーンのような2人だけの設定だったと記憶しています。演技経験に乏しいヒデ坊には酷だなと思ったと同時に、私がリードしなければならないという使命感に駆られたのを覚えています。ヒデ坊は実の弟と同じ4歳年下でしたから、出会った時から弟のような存在でした。私自身も役者経験がゼロからの出発でしたので、デビュー作に挑むヒデ坊の心境は痛いほどわかっていました。それで、姉のような包容力をもって、演技に臨んだのです。
ヒデ坊との共演作の全てを通じて、役者の先輩としてのプライドを持って、演技に取り組みました。この経験が、役者としての幅を拡げるきっかけのひとつになったのではないかと思います。そして、最も印象に残る共演作となったのが、鈴木清順監督がメガホンをとった「峠を渡る若い風」(1961)です。この作品との出合いによって、演じる事の意味を改めて考えさせられ、意欲が大いに掻き立てられたのを覚えています。更なる高みを目指したいという、役者としての野心を抱くきっかけとなったのです。それは同時に、日活を離れる事を考える契機にもなりました。そしてとうとう、「俺に賭けた奴ら」(1962)がヒデ坊との最後の共演になり、その後まもなく退職するに至りました。今、改めて振り返ってみると、このタイミングで日活を離れた事は、シリーズものを共演していたヒデ坊には気の毒な事だったかもしれません。とても申し訳なかったけれど、当時は必死に前だけを見ていました。
次回も日活のエピソードが続きます。