出世作となった「赤い波止場」(1958)

演技をしたこともない少女が、突如として銀幕の世界に入ったわけですから、最初から役者の覚悟など持てるはずもありませんでした。北海道の田舎にいる母は、もって半年だろうと思っていたそうです。元来、口下手で引っ込み思案な性格でしたので、私自身も不安でいっぱいでした。しかし、地元では日活からデビューしたという話題で持ち切りでしたし、新聞にもずいぶん取り上げられていましたから、最低でも3年は頑張ると決めていました。結果を出せずに帰ったとしたら、恥ずかしいですし、家族にも迷惑をかけると思ったからです。

ところで、当時の日活は飛ぶ鳥を落とす勢いでしたが、その中心にいたのは他ならぬ石原裕次郎さんです。その日活の看板スターと本格的に共演した映画のひとつに、「赤い波止場」がありました。デビューした翌年の駆け出しの頃で、まだ清水マリ子という名前で出ていました。裕次郎さんをはじめ、日活の錚々たるメンバーがそろって出演していたことから、神戸市のロケ現場には街中の人々が大勢押しかけていました。実際、撮影現場は混乱することしきりで、時には警察の押さえも効かず、撮影が何度も中断したのを覚えています。

それまで「月下の若武者」の他、いくつかの作品に出演してきましたが、ただ与えられる衣装を身にまとい、一生懸命に覚えてきたセリフを言うことだけで精一杯でした。映画をどのように作り上げていくのか、その中で自分がどのように演じていけばよいのかなど、作品全体を客観的に捉えるまでの余裕などなかったものです。でも、この「赤い波止場」への出演は、演じることの意味や価値を改めて考えるきっかけになりました。それは撮影現場で、石原裕次郎さんからほとばしる情熱を直に感じたときに、役者としての覚悟とはどういうものなのかを、まざまざと思い知らされたからです。

裕次郎さんは、ただならぬオーラを纏っていました。常に真剣勝負で、緊張感があり、もの凄く迫力のある演技をしていました。また、現場に一緒にいると怖いくらいの気迫があり、周囲を圧倒しているのがわかりました。実際、初めは怖い方なのかと思ったくらいです。本人は、日活を背負うくらいの覚悟で、常に演技に臨まれていたのだと思います。その一方で、役者仲間から慕われて、スタッフからの信頼も厚い方でした。そんな大スターとの本格的な共演によって、大いに刺激を受けたことで、役者としての自覚も芽生え、自分自身が成長できたのだと思います。ですからこの作品は、私にとって忘れられないものになりました。また、この映画の出演をきっかけに、多くの作品に出演することになりました。「赤い波止場」は、まさに出世作だったのです。

ちなみに当時、裕次郎さんは私のことを「チビマリ」と呼んでいました。先輩に白木マリさんがいらっしゃったからです。この作品の後、まもなく「まゆみ」に改名されました。

次回も、日活時代のエピソードについてお話しします。

“出世作となった「赤い波止場」(1958)” への4件の返信

  1. 昭和33年の『赤い波止場』異国情緒たっぷりの映画でしたね 好きな作品です。 冒頭から真っ白いスーツを着た 裕ちゃんが波止場をどこまでも歩くシーンはとても格好良かった あれは裕ちゃんしか出来ないと思いました。勝新太郎さんが生前 あの裕ちゃんウォークに対して 言った事は『俺は 出来ないな 何か演技をしてしまう』と称賛していた。裕ちゃんは演技でも何でもなく 格好良く歩こうとも全くそんな考えはなく 素のままの自分の歩きをただひたすらしただけでしたね わざとらしい格好良さをしない格好良さが一番の裕ちゃんの魅力です。 もう一度見たい『赤い波止場』 チャンネルNekoでも 劇場の大スクリーンが一番ですが・・

    1. コメントをいただきまして、ありがとうございます。
      松岡さまは、清水まゆみの公式インスタグラムはご存知でしょうか。毎日、投稿をしておりますので、是非こちらもよろしくお願いたします。
      https://www.instagram.com/la_vie_mayumi
      今後とも、清水まゆみオフィシャルサイト並びにla_vie_mayumiインスタグラムをどうぞよろしくお願いいたします。

      1. コメントありがとうございます インスタグラムは勿論存じてますよ いつも楽しみに見ております

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