日活時代を振り返って(後編)

1961年といえば、忙しさのピークと言ってもよい頃でした。日活も全盛期でしたから、仕事は次から次へとこなさなければならない状況にありました。日本も復興へと大きく前進した時期と重なりますから、映画も人々に夢と希望を与えるようなものが多かったのです。実際、娯楽中心の無国籍映画に出ていると、現実の世界とも違う何か不思議な感覚に囚われることがありました。映画を観ていると、その世界に居るような錯覚に陥る方も多いと思いますが、演じる側もその世界に入ってしまうものなのです。もっとも、仕事が終われば現実の世界ですから、切り替えをしなければなりません。でも、それは私にとって、難しいことではありませんでした。

正直なところ、ヒデ坊とのシリーズものの撮影が続く中で、徐々にマンネリを感じていました。毎回パターンは違うものの、荒唐無稽な内容が続くと、自分は役者として、何を目指していけば良いのか分からなくなっていたのです。そんな中、SPなどで、小沢昭一さんをはじめとする喜劇役者さんとの共演は、新鮮で楽しく、大いにリフレッシュしたのを覚えています。一方、「機動捜査班 暴力」(1961)という作品に代表されるような、社会的な問題作に出演した時は、役作りにより一層、力が入りました。この作品で共演した父親役の菅井一郎さんからも、大変多くのことを学ばせていただきました。

ところで、ヒデ坊との共演作品の中でも「峠を渡る若い風」(1961)は、鈴木清順監督の作品ですが、それまでの荒唐無稽な映画とは一線を画したものでした。清順監督も作品に熱が入っていて、役作りに対する助言は、心に突き刺さるものばかりでした。殊に、基本に立ち返るべき助言は、それからの役作りに大いに役立ったのを覚えています。更には、この映画への出演は、その後の役者人生をどう歩むべきかについて、真摯に考えるきっかけにもなりました。

急速に時代が変化していく中で、自分自身はこのままでもよいのだろうかと、忙しいながらも常に頭を悩ませていました。女性としての幸せを掴みたい一方で、役者としての人生も全うしてみたいという思いが、沸々と湧いてきたのです。「もっと演技がしてみたい」という意欲が高まり、映画からドラマへと興味が移り始めたのも、ちょうどこの頃です。同時に、小髙雄二との結婚についても、いよいよ現実味を帯びてきていました。振り返ってみても、日活時代の後半は、人生の大きな岐路に立たされていたのです。

次回は、川地民夫さんについてお話しします。

日活時代を振り返って(前編)

自宅に保管している64冊の台本を眺めながら、当時のことを思い出していました。デビューは1957年の「月下の若武者」ですが、訳も分からず言われた通りに動いて、たった一言の台詞を言うのにも精一杯でした。それから、徐々にモデルの仕事で多忙になり、演技の勉強をする時間も思うように与えられない中、見様見真似でなんとかやりこなしていたのを思い出しました。それでも、清水マリ子としてデビューしてからは、まだまだ映画の出演も数えるほどでした。

ところで、石原裕次郎さんとご一緒した1958年の「赤い波止場」への出演が、役者としての覚悟を持ち、演技とは何かを考えさせられるきっかけになった事は、すでにお話した通りです。この映画をきっかけに、私自身も役者としての自覚が芽生えたのと同時に、日活も積極的に登用し始めた事を覚えています。芸名が「清水まゆみ」に改められたのも、ちょうどその頃です。それを証拠に、1959年から1962年までの間に出演した台本の数は、47冊もありました。

その47本の映画の内、15本は和田浩治さんとの共演になります。手元に残っているスチール写真のほとんどが、ヒデ坊と共演したものですから、いかに共演数が多かったのかを物語っています。おそらく日活では、ヒデ坊を第二の石原裕次郎として育てたいということで、シリーズものを作って売り出したのではないでしょうか。今思えば、ちょうどそのタイミングで、私も積極的に登用され始めていましたので、都合よくコンビとして成立したのではないかと思っています。

当時の娯楽の中心は間違いなく映画でしたから、まずは面白さが要求されていました。更に、人々がワクワクするようなものであること、キラキラしていて羨むようなものであることが求められていました。ですから、日活の無国籍映画がもてはやされたのでしょうね。御多分に洩れず、ヒデ坊とのシリーズものは、荒唐無稽で漫画的な内容のものが多かったように思います。

睡眠時間も限られ、忙しく仕事をしている日常を送る中で「自分自身は何者なのか?」と、思い始めたのは1961年頃でしたでしょうか。自分は果たしてこのままでよいのだろうかと、疑問を抱き始めるようになったのです。

(後編に続きます)

大鵬さんとの思い出

「巨人・大鵬・卵焼き」といえば、戦後の流行語にもなりましたが、当時の日本人なら誰もが好きだったものの代名詞です。御多分に洩れず、室蘭の実家で一緒に暮らしていた祖母も、大鵬さんの大ファンでした。大鵬さんは北海道出身で、偶然にも私と同じ年。ご縁あって雑誌の取材のため、相撲部屋を訪れたことがありました。人気の代名詞ですから、一体どんな方なのかと、興味津々でした。何より祖母に大鵬さんの話がしたかったので、お会いするのが楽しみでした。

実際、大鵬さんはものすごく体が大きくて圧倒されましたが、横柄なところは少しもなく、素朴で優しい雰囲気の方でした。雑誌の取材でしたから、たくさんの写真が撮影されましたが、中にはお姫様抱っこの写真もありました。今でも、軽々と持ち上げられたことを思い出します。それから相撲部屋では、ちゃんこ鍋をご馳走になりました。人生初のちゃんこ鍋でしたが、見たこともないくらい大きな鍋が出てきて、びっくりしたのを覚えています。部屋中のお相撲さん達が食べられるように、大きい鍋で贅沢に作られていたのですね。皆さんと一緒に、とても美味しくいただきました。ちなみに相撲部屋には沢山の力士が所属していて、とても賑やかでした。部屋の雰囲気がとてもよく、和やかで楽しく、とても印象に残る取材でした。

一期一会ではありませんが、私にとっては貴重な出会いで、大変光栄なことでした。活躍する世界は違いましたが、同郷で、しかも同じ年齢の方が相撲界を牽引しているというだけでも、大変心強いことでした。何より大鵬さんから、たくさんの勇気をいただき、私自身もより一層、頑張ろうという気持ちにさせられたのを覚えています。そうそう、取材の後から大相撲の取組がますます気になるようになりました。今でも大相撲のシーズンになると、必ずテレビで観戦しています。日本人力士がもっともっと強くなってほしいな、と思いながら観ています。それから、大鵬さんのお孫さんの王鵬さん。この一月場所から十両に昇進しましたよね!ますます応援に熱が入っているところです。大鵬さんのような人気の代名詞になれるように、頑張ってほしいと願っています。

次回はまた、日活のエピソードに戻ります。

保管している映画の台本について

自宅に保管している台本の数を数えたところ、日活については、1957年のデビュー作「月下の若武者」から、1963年に退職するまでに、SPも含めて計64本の映画に出演していたことがわかりました。12/27投稿記事では70本近くとしていましたが、準備稿なども含めておりましたので、正式には64本でした(その内、和田浩治さんとの共演は15本です)。当時の映画は、二本立てになっていて、メインの映画にSPと呼ばれる少し短めの映画がセットされていました。映画の宣伝はメインの映画が中心ですから、SPについての情報はあまり公表されてないかもしれません。でも、侮れないくらいに面白い作品がたくさんありました。

ところで、演技初心者からのスタートでしたので、デビューから1、2年はあまり出演作品が多くはありませんでした。ですから、1959年〜1962年までに、怒涛の如く次から次へと映画に出演していたのがわかりました。今だから言えますが、仕事をこなすのに精一杯だったので、全ての映画を最初から最後までゆっくりと鑑賞することは、全くありませんでした。今の時代なら、簡単に自宅で映画も観られますが、当時はそこまで簡単ではありませんでしたしね。それとは別に、正直なところ自分の出演していた映画は、何となく気恥ずかしくて見ていられなかったので、積極的に観たいということもなかったのです。それに対して、小髙は研究熱心でしたから、自分の出演した作品については、細かいところまで常にチェックしていたようでした。

話は脱線しましたが、1963年に日活を退職してからはフリーとなりました。実は、松竹とは年間4本の契約を密かにしておりました。密かに、というのは5社協定があるためです。この辺りのことは長くなるのでまた別の機会にお話しします。それで、改めて台本を確認したところ、最後の出演となる映画まで、結局14本の作品に出演しておりました。日活と、フリーになってから併せて、計78本の映画に出演していたことがわかりました。思ってたより多かったな、という感想です。というのは、フリーになってからはドラマが中心でしたから、日活時代のように次から次へと映画の出演をこなしていたわけではなかったからです。因みにドラマの台本は、千葉から北海道に引っ越す際に、粗方処分してしまいました。その時は、活動再開など、殆ど考えておりませんでしたので、今思えば勿体ないことをしてしまったかもしれません。

こうして改めて保管しているすべての台本を眺めていると、走馬灯のように昔の思い出が過ぎります。やっぱり私にとっては、日活時代が全てと言って良い程の財産です。今、北海道に戻り、半生を振り返る機会を持てたことは本当に良かったですし、Instagramを通じてファンの方に改めてお会いできるのは、何よりも嬉しいことです。だって、ファンあっての役者ですものね。元気なうちに、お世話になった日活や関係各所、そして何よりファンの皆様にこの回顧録を通じて、ご恩返ししなければと思っております。

次回は、大鵬さんについてお話しします。

葉山良二さんとの思い出

とても食通だった、葉山良二さん。良ちゃんとの思い出には、食に関するものがたくさんあります。いろいろなレストランで食事をご一緒しましたが、中でも印象に残っているのは、「しゃぶしゃぶ」です。当時、溜池に高級なしゃぶしゃぶレストランができたということで、小髙と招待された事がありました。田舎から出てきた私にとって「しゃぶしゃぶ」は、すごくハイカラでおしゃれな料理でした。とても美味しくて、感激したのを覚えています。他にも、良ちゃんは銀座や新橋の高級なお鮨屋さんの常連でしたので、ずいぶんと贅沢な思いをさせてくれました。時には、渋谷にあるご自宅に招かれる事もありました。美味しいお肉をたくさん用意してくれて、日活の仲間で焼肉パーティーを楽しんだ事を、今でも懐かしく思い出します。このように良ちゃんは、サービス精神が旺盛で、優しくて面倒見のよい人だったのです。

日活を離れた後ですが、小髙と私は世田谷の家を新たに買って、一緒に住んでおりました。そこは、大蔵映画撮影所から通りを挟んですぐのところでしたから、撮影の合間に、よく良ちゃんが訪ねてきてくれました。当時も忙しかったですから、昼寝をするのにとても都合の良い場所だったようです。私たちが撮影で不在にしていても、平気で来て「何かスープを作ってほしい」と留守の者に頼んで、自分の家のように過ごしていたとか。良ちゃんと小髙とは気の置けない間柄でしたので、私抜きで2人でお酒を飲みに行くこともありました。

今日は1月3日、良ちゃんの命日。あまりにも早い旅立ちで、小髙も私もとても残念でした。新年明けてすぐのお葬式は、とても寂しく感じたものです。今は夫も亡くなりましたが、今日一日は日活時代を思い返して、故人を偲びたいと思います。

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