自宅に保管している台本の数を数えたところ、日活については、1957年のデビュー作「月下の若武者」から、1963年に退職するまでに、SPも含めて計64本の映画に出演していたことがわかりました。12/27投稿記事では70本近くとしていましたが、準備稿なども含めておりましたので、正式には64本でした(その内、和田浩治さんとの共演は15本です)。当時の映画は、二本立てになっていて、メインの映画にSPと呼ばれる少し短めの映画がセットされていました。映画の宣伝はメインの映画が中心ですから、SPについての情報はあまり公表されてないかもしれません。でも、侮れないくらいに面白い作品がたくさんありました。
ところで、演技初心者からのスタートでしたので、デビューから1、2年はあまり出演作品が多くはありませんでした。ですから、1959年〜1962年までに、怒涛の如く次から次へと映画に出演していたのがわかりました。今だから言えますが、仕事をこなすのに精一杯だったので、全ての映画を最初から最後までゆっくりと鑑賞することは、全くありませんでした。今の時代なら、簡単に自宅で映画も観られますが、当時はそこまで簡単ではありませんでしたしね。それとは別に、正直なところ自分の出演していた映画は、何となく気恥ずかしくて見ていられなかったので、積極的に観たいということもなかったのです。それに対して、小髙は研究熱心でしたから、自分の出演した作品については、細かいところまで常にチェックしていたようでした。
話は脱線しましたが、1963年に日活を退職してからはフリーとなりました。実は、松竹とは年間4本の契約を密かにしておりました。密かに、というのは5社協定があるためです。この辺りのことは長くなるのでまた別の機会にお話しします。それで、改めて台本を確認したところ、最後の出演となる映画まで、結局14本の作品に出演しておりました。日活と、フリーになってから併せて、計78本の映画に出演していたことがわかりました。思ってたより多かったな、という感想です。というのは、フリーになってからはドラマが中心でしたから、日活時代のように次から次へと映画の出演をこなしていたわけではなかったからです。因みにドラマの台本は、千葉から北海道に引っ越す際に、粗方処分してしまいました。その時は、活動再開など、殆ど考えておりませんでしたので、今思えば勿体ないことをしてしまったかもしれません。
こうして改めて保管しているすべての台本を眺めていると、走馬灯のように昔の思い出が過ぎります。やっぱり私にとっては、日活時代が全てと言って良い程の財産です。今、北海道に戻り、半生を振り返る機会を持てたことは本当に良かったですし、Instagramを通じてファンの方に改めてお会いできるのは、何よりも嬉しいことです。だって、ファンあっての役者ですものね。元気なうちに、お世話になった日活や関係各所、そして何よりファンの皆様にこの回顧録を通じて、ご恩返ししなければと思っております。
次回は、大鵬さんについてお話しします。