フリーになるまでの道のり

日活を離れることを決意してから1年以上かかって、ようやくフリーになりました。しかし、その道のりは決して容易いものではありませんでした。なぜなら、五社協定が目の前に立ちはだかっていたからです。それは、1953年に当時の日本の大手映画会社が、専属の監督や俳優に関して取り決めた約束事でした。具体的には、引き抜きや貸し出しを禁止する内容です。当然、生え抜きの私については、俳優をやめる以外に日活を離れるのは困難なことでした。もちろん、私より以前に日活を離れた先輩方もおられましたが、どなたも公然とはなし得ませんでした。ですから私も、煙を撒くようにいつの間にか消えてしまうような辞め方をしなければならなかったのです。

ところで、日活の後半に差し掛かる頃から、マンネリ化に悩まされていたことは以前にお話しした通りですが、信頼できる限られた仲間の俳優には悩みを聞いてもらっていました。中でも、先輩の南田洋子さんには何かと親身に相談に乗っていただいたのを覚えています。そんなある日、南田さんのご主人である長門裕之さんから、後にマネージャーになる方をご紹介していただきました。小橋さんという女性の方で、長門夫妻が日活を離れた後に専属のマネージャー契約をされていた方でした。小橋さんは敏腕で、松竹にパイプをもっているとのこと。実際、長門夫妻が日活を離れる手筈もすべて小橋さんに整えてもらったと聞いて、私も全面的に委ねることにしたのです。ちなみに、長門夫妻は小橋さんとの契約を解除して「人間プロダクション」の設立準備をしているタイミングでした。渡に船ではありませんが、絶妙なタイミングでマネージャーをご紹介していただいたわけです。

1962年に入ってから、小橋さんと具体的な打ち合わせを重ねておりました。そこで、密かに松竹と年間4本の映画出演の契約を取り付けたのです。ただし、これは明らかに五社協定違反になるため、一切の宣伝は行わないという前提条件がつきました。この契約は、これまで大変お世話になった日活に対して顔向けができないものですので、内密にしておかなければなりません。もちろん、松竹は承知の上です。そして、実際に日活を離れるまではとても慎重に行動しなければなりませんでした。全ての手続きを小橋さんに委ねていたので、彼女が日活と具体的にどのような話し合いをしてきたのかは聞いておりませんでしたが、決着するまでは私以上に、恐らく彼女自身が一番、緊張していたに違いありません。

結局、日活に対してはきちっとしたけじめとしてのご挨拶もできずに、静かに去りました。後々、大きなトラブルにならなかったのは、私自身が日活の看板俳優までの地位ではなかったのと、小髙がその後も日活に残ってくれたお陰だと思っています。この回顧録を執筆しているときに、その事に気付かされました。私はまだ22,3歳で世間もよく知らず、全てお膳立てされたところでしか動くことができませんでしたから、その後の状況など考えたこともなかったのです。それにしても、自分は随分と恵まれた環境の中で生きてきたのだと思います。そして、小髙の支えがどれほど大きかったのかを改めて思い知りました。

今、こうして昔を振り返っておりますが、日活の時代があったからこその役者人生だと強く思います。状況が許さなかったとはいえ、日活を去る際にきちんと感謝の気持ちを伝えられなかったことが悔やまれました。だからこそ、今だからできる形で日活にご恩返しをしたい気持ちです。80歳を過ぎて記憶もかなり頼りないところではありますが、できるだけ思い出しながら写真と共に記録に残したいと思います。

次回は、フリーになって初めて気付かされたことについてお話しします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Copyright © 2021 - 2023 Smart Office One. All rights reserved. 無断転載厳禁