日活を離れて気付いたこと

1963年に日活を離れてから、まず初めに松竹映画に出演しました。松竹とは、年に4本の映画に出演する契約を交わしておりましたが、その記念すべき第1作目は、「結婚の設計」(1963年公開)という岩下志麻さんとの共演作品でした。それまで私自身も60本を超える映画に出演しておりましたから、もちろん撮影現場には慣れておりました。役者の仕事、という面では日活であろうと松竹であろうと何ら変わるものではありません。また、共演した志麻さんとは同世代でしたし、聡明で気さくな方でしたから、とても気持ちよく仕事をさせていただいたのを覚えています。フリーになってからの初仕事でしたし、とても印象に残る作品のひとつでもありました。

ところで、日活と松竹の印象の違いはといえば、日活は「若さ溢れる雰囲気」であるのに対し、松竹は「大人の雰囲気」でした。所属している人たちの年齢層は両社ともそれほど変わらないものでしたが、松竹はとても落ち着いてみえたのです。おそらく、仕事とプライベートがきっちり分けられていたからではないでしょうか。例えば、松竹では撮影後の休憩や食事を共演者同士が一緒に過ごすことは滅多にありませんでした。これに対し、日活は仕事もプライベートも一緒に楽しくワイワイやっていたものです。上下関係も厳しくなく、主役も脇役もスタッフも一緒になって楽しんでおりました。言ってみたら、学生のノリみたいな感じです。どちらがいいとか悪いとかではなく、雰囲気の違いにとても驚いたのを覚えています。いわばカルチャーショックでした。

おそらく、作品の違いにもその傾向は現れていたように思われます。例えば、日活は漫画のようなアクション映画のシリーズものや喜劇が多かったのに対し、松竹は原作ものが中心でした。私自身、原作もののシリアスな作品にもっと出逢いたいという思いが強くありましたので、松竹映画に出演することは願ってもないことでした。そして、今振り返ってみても、日活を離れることは役者としての幅を広げるために必要な経験でした。カルチャーショックを乗り越えるのは容易ではありませんでしたが、役者としてのみならず、自分自身の成長にも必要な過程だったと思います。

当時の日本は今とは違い、年功序列で終身雇用が当たり前の時代でした。一旦就職すれば、道筋はつけられていたものです。しかし、役者の世界では五社協定はあったものの、いわゆるサラリーマンのような縛りはありません。常に個人の能力が問われましたし、役者としての成長は如何に経験を積んでいくかに係っていました。そして実力がなければ、使ってはもらえません。役者は映画やドラマに不可欠ですが、自ら制作に関わる以外は受け身です。声が掛からなければ、出演機会は得られないシビアな世界なのです。日活にいた頃は、そのような心配はほぼ無用でしたが、フリーになってからは現実の厳しさを思い知ることになりました。

それにしても、日活での経験は私自身を支えるものでした。日活俳優の価値がどの程度のものなのか、周囲も私の力量を測っていたように思います。実際、日活の明るく楽しい雰囲気の中で自然と培われてきたものは揺るぎなく、新しい世界への挑戦に自信と勇気を与えるものでした。このことは、日活を離れてから初めて実感できたことです。そして、何より小髙の存在が私をより一層、自由に羽ばたかせてくれておりました。そばに俳優の実力者が居るというだけで、精神的な余裕をもたらしてくれていたのです。

次回は、田中邦衛さんについてお話しします。

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