映画からドラマの時代へ

「気がついたらドラマの時代になっていた」という感じでした。日活を離れるのは一苦労でしたが、その後は必死に仕事をこなしてきました。フリーになってからは後ろ盾がありませんから、気を抜く暇がなかったのです。映画はもちろん、ドラマに舞台、その他もろもろ大忙しでした。圧倒的にドラマの仕事が中心でしたが、今になってドラマの出演履歴を調べようにも、台本を殆ど処分してしまいましたので分からずじまいでした。そこでインターネットで調べたところ、130作品あまりのドラマに出演した記録がありました。連続ドラマもありますから、話数にするとどのくらいになるでしょうか…300弱話数くらいかしら。一方、その間の映画の出演本数は20本もありませんから、ボリュームから言ってもドラマの時代になっていたことがわかります。

ところで、私生活の話をすれば1969年についに小髙との入籍を果たしました。実は入籍の翌日、小髙は長期滞在の予定でイタリアに旅立っておりました。第一の目的は私との挙式をすること、第二にはイタリアのチネチッタ撮影所で新たに仕事をする夢を実現するためでした。本来は一緒に行きたいところでしたが、あいにく連続ドラマ「やどかりの詩」に出演していたので、撮影の終了を待ってからイタリアで合流する予定でした。小髙は3ヶ月くらい先に出発していて、私を受け入れる準備をしつつ、チネチッタでの仕事を模索していたのです。ところが、ドラマの撮影が終わって間も無く、小髙が病に倒れたとの一報を受けました。とにかく小髙の事が心配で、何はともあれイタリアに駆けつけたい気持ちもありました。しかし、イタリアでは言葉も不自由なため現地で療養をするのは現実的では無いと判断し、何とかして帰国してもらうことにしたのです。その時は自分でも驚くほど冷静に判断していました。入籍も済ませておりましたし、妻としての覚悟ができていたのかもしれませんね。羽田空港で痩せ細った顔色の悪い小髙を出迎えた時、想像以上に状態が悪いことを知り、安堵するより緊張感が走った事を覚えています。それからすぐに入院したのです。

イタリアで挙式する予定にしていましたので、「やどかりの詩」以降は少し休暇をとっておりました。束の間ですが、自分の時間が持てたのです。もちろん、小髙の事が一番心配でしたので考えることは多かったのですが、少し自分を振り返る時間も与えられました。それまで必死に仕事をしてきたので、全体を見回す余裕はありませんでしたが、ふと、自分はいち早く映画の世界からドラマの世界へ移ってきたのだと悟ったことを覚えています。流れに逆らわずき生きてきたつもりでしたが、それまでの世界に見切りをつけるのも早かったのかなと思います。それにしても人生は何が起こるかわからないものですね。ドラマの撮影後はイタリアでの休日を夢見ていたのに、厳しい現実を突きつけられてしまいました。でもどうにかして乗り越えてきたのは、楽天的な性格の所為でしょうか。結婚と同時に、夫の闘病を支えながらドラマの世界で生きる覚悟をしたのです。

社会的な問題作「やどかりの詩」

有馬頼義原作の連続ドラマ「やどかりの詩」(1968年6月〜)に主演しました。このドラマは子供のできない夫婦が人工授精を行うかどうか葛藤し、精子の提供者との三角関係に悩むというかなり重たい内容です。当時、社会的な問題作と言われておりました。一方、1968年といえば小髙と入籍する前の年でしたし、事実婚だったとはいえ二人の間で子供のことはまだ問題になっていなかった頃です。それまでに演じたことのない役柄でしたので、「もし自分だったらどうなのか?」と常に問いながら取り組んでいたことを覚えています。役柄に自分自身を当てはめていく事が難しかったですね。

夫の役は塚本信夫さんでしたが、俳優座出身のベテラン俳優で小髙の一期先輩。役作りで不安のあった私を随分と支えてくださったのを覚えています。俳優間の信頼関係がドラマの質に影響を及ぼしますが、相手役が小髙と親しいということでとても助けられました。振り返ってみれば、日活では俳優同士が既に仲間内でしたからやり易かったわけです。フリーになってからはそういう訳にもいきませんので、日活時代のありがたさをひしひしと感じました。このように離れてみてわかることもありましたね。

ところで私自身のことを言えば、もちろん小髙との子供が欲しかったのですが、残念ながらその願いは叶いませんでした。ドラマに出演した時には、将来、自分にも不妊の問題が起こるとは夢にも思っていませんでした。昨今では医療も進んでいろいろな方法があるようですが、私たちは子供のいない人生を受け入れたのです。このドラマへの出演によって、不妊の問題を夫婦でどのように考えていくのかを、演技とはいえ経験できた事は、少なからず実生活においても役に立ったのかなと思います。

役者という仕事を通じていろいろな人の価値観に触れる事は、その都度、自分自身の価値観も見直す機会になりました。自分という人間はひとりしかいませんが、役者は演じる事でいろいろな人の人生を疑似体験できるのが面白いのです。自分自身に似ているキャラクターを演じるのは容易いですし、その役柄の人生をそこまで深く考える必要もなかったかもしれません。「楽天夫人」なんかは良い例です。しかし、このドラマのようにその時の自分とはかけ離れている役柄を演じる場合に、自分とまた別の人生を演じる醍醐味を味わえるものだと思います。このように演じる難しさを経験すればするほど、役者の仕事に夢中になっていったのです。

次回はドラマ全般について振り返る予定です。

楽しかったドラマ「楽天夫人」

日活を離れてから念願のドラマ出演を果たしましたが、その中でも印象に残る作品の一つに「楽天夫人」(関テレ、1967年1月6日〜6月30日、全26回)がありました。宝塚映画製作所の作品でしたが、1956年に松竹系で映画化もされておりました。念のためあらすじを確認しましたが、映画とドラマでは少し内容が異なっているかもしれませんね。いずれにしても、「楽天夫人」の主人公はとにかく明るくて機転の効く女性でしたので、根が明るい私にとっては役に入り易かったのを覚えています。因みに言えば、私の場合は与えられた役柄に自分自身をどのように合わせて行くのか、考えながら役作りをしていました。当然の事ながら、等身大の役柄の場合はとても楽に役に入ることができます。台詞も自然に自分のものになったものです。

さて、ドラマの舞台は、大阪の千里ニュータウンにあるアパートの一室です。当時は1970年に開催が控えていた大阪万博の準備のため、街全体が大変盛り上がっていた時期と重なっておりました。戦後、日本の復興の象徴的なイベントとなった大阪万博でしたし、会場に隣接する千里丘陵は建設ラッシュでとても賑わっていたものです。人々の気持ちも前向きで明るく、このドラマの主人公の明るさも手伝って、私自身も大いにやる気に満ち溢れていたのを思い出します。

ところで、ドラマの撮影では宝塚の撮影所と千里ニュータウンを行ったり来たりしていました。アパートの中は撮影所のスタジオで収録しますが、玄関の出入りは実際のアパートで行われました。また、アパートの近くのスーパーで買い物をするシーンは、実際に現場近くのスーパーを借りて撮影されました。その際、身に付けるものなどの小道具や衣装が、ロケーションとスタジオでの撮影とで齟齬がないようにしなければなりません。スクリプターさんの記録が頼りになるところですが、当時は私たち俳優も記憶しておくべきものでした。小道具といえば、私は吸いませんが、タバコの長さにも気をつけなければなりませんでした。例えば、スタジオで撮影された時に吸っていた長さと、玄関を出た時の長さが違っているわけにはいきません。このドラマでは日常生活を送る上での出来事をベースに物語が展開していきましたので、いつも細かい配慮が必要とされていました。

ドラマの撮影は半年以上に及んだでしょうか。期間中はキャストはもちろんのこと、スタッフとも家族のように接しておりしたのでとても仲良くなりました。撮影がお休みの日でも集まり、家族同伴でハイキングに出かけたこともありました。それから宝塚の撮影所の側には川が流れていて、撮影の休み時間にその川で釣った魚をその場で焚き火をして焼いて、みんなで食べた事なんかもありました。こんなに和やかで楽しい撮影期間を過ごしたドラマは、後にも先にもありませんでしたね。

最後に宝塚といえば宝塚歌劇団ですが、撮影所の敷地の中に宝塚劇場がありました。実は、撮影所の裏口から劇場の裏口へ通じておりましたので、こっそりと覗きに行った事がありました。長姉があこがれていた宝塚、幼い頃に姉から話をずいぶんと聞かされておりましたので、実際はどんなものなのか、どうしても覗いてみたくなったのです。初めて見た時の衝撃は、今でも忘れる事ができません。「楽天夫人」で日常生活を演じていた私にはものすごく刺激的でした。ゴージャスなステージと煌びやかな衣装を身に纏っているタカラジェンヌは、非日常そのもの。何という夢の世界に来てしまったのだろう?!と、しばしボーッとしてしまったのを覚えています。

そんなわけで、撮影はもちろんの事、プライベートな時間もとても充実していた「楽天夫人」。娯楽の中心が映画から急速にドラマへと移行する中で、この作品に主演できた事は幸運でした。とても感謝しています。次回も引き続きドラマのエピソードについてお話しする予定です。

初めての連続ドラマ「白い魔魚」

日活を離れてからは、松竹や大映などでの映画出演の他、新たにドラマへも挑戦しました。元々、演技の幅を拡げたい思いもあって日活を離れましたから、念願が叶ったものです。映画とドラマではどれほど勝手が違うのか興味津々でしたから、緊張は全くと言っていいほどしていませんでした。とにかく新しい世界への期待感が高まり、ワクワクしていたのを覚えています。

実際に撮影が始まって分かったことは、ドラマは映画の縮小版だということです。当たり前かもしれませんが、スタッフの数は映画の1/2〜1/3くらいでしょうか。撮影部隊はとてもコンパクトな印象でした。連続ドラマなので半年間は一緒に仕事をしますから、自ずとキャストもスタッフも家族のように親しくなりましたね。皆で一緒に食事をして、和気あいあいとした雰囲気の中で、気持ちよく仕事をしていました。あるドラマでは撮影がオフの日も集まってハイキングに出掛けたこともあって、写真が残っておりました。松竹映画で受けたカルチャーショックが嘘のように吹き飛んだのを覚えています。

さて、連続ドラマに主演した最初の作品は舟橋聖一原作の「白い魔魚」でした。ライオン奥様劇場で1965年3月1日〜4月2日までの25回にわたって放送されたものです。この作品は、まず1956年に松竹で映画化されておりました。当時は映画が先行される傾向にありましたが、映画での評判をみてドラマ化するかどうか決めていたとすれば、今の時代とは順番が逆でしたね。このように振り返ると、娯楽の中心が映画からドラマに移行する時代の中にいたことがよくわかります。「白い魔魚」を主演するにあたり原作者である舟橋先生ともお会いしましたが、このドラマは時間をかけてとても丁寧に企画されたものだという印象を受けました。

ところで、「白い魔魚」は岐阜が舞台でしたので、東京と行ったり来たりしていました。共演は同じく日活出身の沢本忠雄さんでしたので、気心が知れてとてもやり易かったのを覚えています。でも残念ながら台本は処分してしまったし、詳細を思い出すことができません。それで先日、念のためにサワタボさんに連絡して訊いてみたのですが、「俺、全然覚えてないから!」とアッサリ言われてがっかりしてしまいました。それもそのはず、もう60年近くも前のお話ですから…仕方がないですよね。機会があればドラマも見直してみたいものです。

次回は、ドラマ「楽天夫人」のエピソードについてお話しします。

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