どうにか小髙も日常生活を送れるほどに回復しましたが、俳優の仕事をする事はできなくなりました。日活を離れてから石原プロモーションに所属したので、仕事のオファーはいくつもありました。中には小髙と是非とも仕事がしたい監督からの直々の申し出もありましたし、裕ちゃんもかなり気にしてくれていました。何とか復帰してもらいたいと熱心に説得したかったようなのですが、当の本人が諦めてしまっていたのです。思うような役作りができるような体力を失っていたので、中途半端な仕事をするぐらいならキッパリと辞めてしまいたいと考えていました。いつ発作が起きてもおかしくない状態でしたので、致し方なかったのかなと思います。
ところで、小髙は幼少の頃から詩を書いておりましたから、葉山の生活でも自然と詩を書くことが日常となりました。自然の恵みの中で、自由に思うまま筆を運んでいたのをそばで眺めていて、小髙の生きる目的がはっきりと見えてきたのがわかりました。俳優としての夢は破れましたが、新たに生きる希望を見出せたことは何よりの事でした。しかし、それは同時に夫の収入がほとんど見込めないことを意味するものでした。夫の療養に寄り添いたい気持ちを抑えて、仕事に完全復帰すべきかどうかとても悩みました。
実は以前、世田谷にいた時にも悩ましい時期がありました。小髙が余命宣告を受けた時です。ある日、離婚をして仕事に打ち込んではどうかと提案してきたのです。今思えば、私に離婚する意思がない事がわかっていた上での発言に違いないのですが、夫も相当不安だったのでしょうね。その時点で、自分にとっての価値ある生き方とは、離婚してまで俳優としての仕事をすることではないとはっきりとわかっていました。まして、余命宣告を受けている夫を放ってまで仕事ができるものでしょうか。精一杯、最後までそばに居たいと思っていました。
そして、葉山に住み始めて小髙もようやく日常生活を送れるようになり、改めてプライベートと仕事の配分をどのようにすべきかを考えた時、それは同時に自分の人生を見つめ直す機会となりました。夫とあと何年一緒に暮らせるかわからない中、葉山で過ごす時間を大切にしたい思いが強くありました。そこで、お金では決して買えない価値ある時間を過ごすために、逆にどのくらい仕事をするべきかを考えたのです。日活を離れて俳優としてのキャリアを積むため必死に仕事をこなしてきましたが、それを半ば捨てる覚悟で仕事を選ぶ事にしました。
結局、できるだけ葉山から離れる事のない仕事を選んだおかげで、徐々に仕事の依頼は減ってしまいました。当然の結果ですが、一枚看板というわけにはいかなくなりました。その所為もあってか、困った事に日焼けした肌の色は濃くなる一方となったのです。
次回はハワイでの突然の挙式ついてお話しします。