大海原を求めて千葉へ(1997)

湘南国際村の開設のために始まった葉山町の山林の伐採工事の所為なのか、目の前の海に赤土が混ざるようになってきたのは、バブル真っ只中の事でした。私たちは少し浮世離れした暮らしをしていたので、世俗的な事には頓着しておりませんでしたが、海の色が変わってきた時には流石に世の中の変化を感じざるを得ませんでした。何しろ小髙の療養のために大好きな海を眺められるところに移り住んできたのに、海が汚れてきたのでは元も子もありません。一生を葉山で暮らすつもりでしたが、どうやらそれも叶わないと思い始めていました。

それまでの葉山の海はものすごく透明で、一度潜ればそこは竜宮城じゃないですけど、珊瑚に熱帯魚、季節ごとに変わる魚介類の宝庫であることがわかりました。とにかく毎日、素潜りで熱帯魚と一緒に戯れ、あるいは魚介類を素手で捕獲して新鮮なものを口にするというような豊かな生活をしていました。例えば、「ウニ丼が食べたい!」と思ったら、海に潜って獲ってそのまま食卓へ…なんてことはいとも簡単だったのです。当時は規制が緩かったので、全然お咎め無しどころか、ご近所の漁師さんや非番の警察官やら皆さん集って、楽しく浜辺でバーベキューなどワイワイやっていたものです。今ではとても想像もできない事でしょうね。

このように私たちはほぼ毎日、海に出ていましたが、自然と人が集まって来てくれました。葉山の住人は個性的な人が多かったのですが、気持ちにも余裕がある人ばかりでしたのでとても楽しかったものです。加えて我が家には、わざわざ葉山の自然を求めて来てくれる友人たちも沢山おりましたので、退屈する事はありませんでした。何より葉山での暮らしのお陰で、小髙の体調がひどく悪くなる事はほとんどなかったのです。振り返ってみても、小髙が思ったよりも長生きできたのは、澄み切った葉山の海のお陰なのです。

ところが、海の色が赤土で変わってきた途端になかなか人が集まらなくなりました。というのも海が汚れた所為で海藻類が死に、珊瑚が枯れて熱帯魚もいなくなってしまったからです。そして、海中の視界が悪くなってしまったので、素潜りがとても危険になりました。岩場も多く、ウツボなどの危険な生物は接近しなければその存在も確認し難かったからです。ですから海に潜ることも徐々にしなくなりました。それとは別に、家屋の維持も容易くありませんでした。茅葺き屋根を補修するにも職人が居なくなってしまって、なかなか思うようにもできなくなってしまったのです。

葉山を手放すのはとても惜しかったのですが、事情が事情だけに決断せざるを得ませんでした。そこでまた不動産屋の異名を持つ私の出番となったわけです。伊豆から湘南まで、マンションも視野に入れて探しました。仕事も考えて首都圏から遠く離れる事はできませんでしたので、エリアは限られていました。でも葉山が良すぎた所為で、なかなか思うように見つけられなかったのです。探し始めて一年くらい経った頃でしょうか、もともと葉山に住んでいた小髙の親しい友人から、千葉で探さないかと声をかけてもらったのです。

千葉の海というのはそれまでの選択肢には在りませんでしたが、せっかくなので探してみる事にしました。そうして偶然、広告にあった家が目に留まりました。その家は「陽のあたる坂道」に出てくるロケセットに雰囲気がそっくりだった上に、海まで徒歩で5分という願ってもない物件だったのです。そこは、小髙が好きだった高村光太郎の「智恵子抄」の智恵子が遊んだ砂浜に近い、九十九里浜にある白子町でした。全長60キロにも及ぶ砂浜は、葉山の箱庭のようなものとは対照的でした。九十九里浜の大海原に惹かれて、私たちは千葉に移り住む事に決めたのです。

次回は千葉での生活についてお話しする予定です。

洋上での最後の午餐

裕ちゃんこと石原裕次郎さんが亡くなる前の年の11月頃だったでしょうか。昼下がりに小髙と愛犬のムルソーを連れて葉山の海岸を散歩していた時、沖に派手なヨットが停泊しているのに気が付きました。確か龍が描かれたと思いますが、赤と黒のド派手なヨットは裕ちゃんのものに間違いありません。私たちは近所で親しくしている貸ボート屋の通称ピンちゃんのところに急いで行って、ムルソーを預かってもらい、手漕ぎボートを一艘借りました。ちなみにそのボートは最近、皇太子殿下に貸し出ししたばかりの新しいものとのこと。裕ちゃんの船のところに行くなら良いボートに乗って行ってほしいと、ピンちゃんも気を利かせてくれたのです。

小髙がボートを漕いで裕ちゃんのヨットに近づいたところ、クルーの一人が気付いてくれたので、私たちは大きく手を振りました。その時、裕ちゃんは背を向けてデッキに座っていましたが、クルーの呼びかけに応えて慌ててこちらに振り向き、驚いた表情から相好を崩して大きく手を振りながら「尊ちゃん!マリちゃん!これは神様の思し召しだね!!」と叫んだのです。まさかここで会えるなんて思ってもみなかったからでしょうけど…神様の思し召しだなんて、内心は大袈裟だなと思うよりも少しドキっとしていました。後から聞けば、小髙も同じように感じていたそうです。私たちは寂しいような、何かもう会えないような嫌な予感がしていました。

ところで、裕ちゃんと小髙は1958年公開の「陽のあたる坂道」で共演したのをきっかけに、親交を深めていました。小髙にとっては日活でのデビュー作でしたが、既に俳優座で舞台俳優として活躍していましたから、役者として裕ちゃんよりもキャリアはずっと長かったのです。また、小髙は役作りについては誰よりも拘りの強い人でしたから役者としてのプライドも高く、裕ちゃんも一目置く存在だったようです。年齢も一つ違いでしたから、私からみると「陽のあたる坂道」同様に二人は兄弟のような関係にも見えました。あるいは、お互いに真摯に向き合えるような真の友人関係だったといってもいいかもしれません。

役作りの話といえば、小髙が主演した1959年公開の「網走番外地」を参考にしたいと、裕ちゃんは単独で撮影所の試写室に行って熱心に観て研究していたこともあったそうです。因みにこの作品は、小高自身も相当に力を入れていたものでした。裕ちゃんは押しも押されもせぬ大スターでしたが、忙しい中にあっても影でどれほど努力をしていたものかと思います。また、役作りに関しては何かと小髙に客観的な意見を求めていたそうです。思い起こせば、小髙が本格的に療養生活に入る前までは、裕ちゃんと二人でよく飲みに行って深酒をすることもしばしばありました。彼らがまだまだ元気に活躍していた20代の頃ですが、一晩でお銚子を52本も空けたことがあったそうです。

ヨットでの話に戻りますが、裕ちゃんと小髙が会うのは本当に久しぶりのことでした。晩年はお互いに病気になってしまった所為で、なかなか会う機会が作れなかったのです。二人は音楽や絵画など芸術の分野についても話が合うそうで、そばで見ていても彼らの会話は常に弾んでいました。元々馬が合うのでしょうね。若い頃からお互いのことを理解し合っていましたから、会わない期間が長くても全く隔たりを感じていないようでした。そしてヨットの上での会話は、専ら健康についての話題でした。まだ50代に入ったばかりでしたし、病気が憎かったでしょうね。やりたいこともたくさんあったはずです。裕ちゃんは先にハワイに行ってるから、後で合流してほしいと話していました。海が大好きな彼らにとって、常夏のハワイは療養の地としてうってつけの場所だと考えていたのでしょう。

「俺のナポリタンは美味いんだよ」と言って、裕ちゃんご自慢のナポリタンと赤ワインを振る舞ってくれました。本当は裕ちゃんがフライパンを振りたかったのでしょうけど、その時はそれも叶わず専属の料理人が作ってくれました。裕ちゃんはすでに深刻な病に侵されていたのがわかっていたので、長居はできないと思いながらも2時間以上も一緒に過ごしたでしょうか。11月ですから日も短く、かなり肌寒かったのを覚えています。洋上でのささやかな宴は、悲しくも私たちが会う最後のものとなってしまいました。名残惜しくヨットを離れましたが、裕ちゃんはずっと私たちに手を振り続けてくれました。「本当にさようなら、ありがとう…」と言っているような気がしてなりません。今、こうしてその時のことを思い出しても涙が出てきてしまいます。もうこの世に裕ちゃんも、尊ちゃんもいないのですね…。

あれから35年の歳月が流れました。当時を知る日活の仲間も少なくなり、時代の流れを感じざるを得ません。私にとって今なお心の拠りどころは、あの日活の黄金時代です。その日活時代に、そして私たち夫婦の人生に、より一層の彩りを添えてくれた裕ちゃん。本当にありがとうございました。出逢えたことに心から感謝しています。

石原裕次郎さんとの出会い

石原裕次郎という人を初めて知ったのは、中学を卒業して室蘭文化学院に入ったばかりの頃だったでしょうか。当時「狂った果実」のポスターが、地元の映画館にデカデカと張り出されていたのを通学途中に見ていました。その頃から裕ちゃんの名前は、北海道の田舎町にも轟いてたのです。映画を観たことはなかったのですが、ポスターを眺めて子供ながらに「カッコいいお兄さんだなぁ」と思っていました。5人きょうだいの3番目で兄はいませんでしたので、裕ちゃんみたいなお兄さんがいたらいいのにと思っていたものです。

ところでデビュー直前の1957年の初詣に、家族で大笑いした出来事がありました。それは近所の八幡神社にお詣りした時におみくじを引いたのですが、そこには「石原裕次郎のような有名人になる」と書かれていたのです。単に「有名な人」ではなくて「石原裕次郎のような…」と書かれていた事に家族も皆、興味津々で私のおみくじを覗き込んだものです。片田舎の専門学校生の私が有名人になるとか、しかも石原裕次郎のような人気者になるなんて事は絶対にあり得ない話なので、馬鹿馬鹿しくって親たちも一緒になって大笑いしました。おみくじもその場でぽいっと捨ててしまったのです。取っておけば面白かったのに、勿体無いことをしました。

それにしても裕ちゃんは確か1956年にデビューしたばかりのはずでしたから、1957年のおみくじにその名前が刻まれるとは、どれほどセンセーショナルなデビューだったのでしょうか。流石、デビューして瞬く間に国民的な大スターになられたわけです。そして私はと言えば、おみくじを引いた年の春休みに長姉に唆されて日活のオーディションを受けて、あれよあれよと言う間にデビューを果たしました。そして、それから間もなくして本物の裕ちゃんと出会う運命だったとは…!おみくじを引いてから数ヶ月でこんなに状況が変わるなんて夢にも思いませんでした。

さて、一番最初に裕ちゃんの映画に出たのは1957年に公開された「嵐を呼ぶ男」でした。役名もなくエキストラのような出演で、作品の冒頭部分にチラッと登場したくらいのものでした。裕ちゃんとの絡みもなかったので撮影でお会いすることはなかったのですが、スタッフやキャストの緊張感や張り切り具合は他の映画とは少し違うような感じがしました。日活の看板俳優が主演となると、良い意味で撮影所の空気感が変わるのです。ですから本人に会わずとも、存在感が大いに感じられたのを覚えています。

その後、本格的に共演したのは、1958年に公開された「嵐の中を突っ走れ」です。裕ちゃんの最初の印象は、とにかく明るくて優しい人。後光が差しているかと思うくらいキラキラと光り輝いていました。スターのオーラというのを初めて感じた方です。この作品の私の役どころは、裕ちゃんが教員を務めるところの学生です。いきなり千葉の館山でのロケーションからの撮影でした。中原早苗さんをはじめほぼ同年代の女子学生役が集まりましたから、それはもう修学旅行気分でした。雨の日は撮影が中止になるので、みんなで裕ちゃんを揶揄って遊んだこともありました。

デビューしたばかりの私にとって、裕ちゃんは正にお兄さんのような存在でした。おまけにすごくスリムでスタイルも良くてカッコよかったのです。憧れの人と一緒に仕事ができるなんて夢のような時間でした。この映画の撮影から私のことは親しみを込めて「ちびマリ」と呼んでくれました。ちなみにこの作品でご一緒した白木マリさんは、裕ちゃんから「でかマリ」と呼ばれていました。

その後の共演作品は、1958年公開の役者として意気に燃えるきっかけとなった「赤い波止場」をはじめ「紅の翼」、1959年に「若い川の流れ」「天と地をかける男」、そして同年公開の「男なら夢をみろ」では初めて裕ちゃんの相手役に抜擢されました。最後の共演となったのは1960年公開の「鉄火場の風」でしたが、この作品についても裕ちゃんの相手役を演じました。本当にたくさんの思い出が詰まっている作品です。おかげさまで日活で数多くの作品に出演させて頂きましたが、裕ちゃんとの共演した映画はどれも印象に残るものばかりです。

私の役者としての人生において、多大なる影響をもたらしてくださった裕ちゃん。実は、夫である小髙の親友でしたので、プライベートでも長年に渡りお付き合いさせていただきました。裕ちゃんの命日が近づいてきましたが、次回は夫も含めたプライベートでの思い出についてお話しします。お楽しみに。

ヒデ坊との思い出

ヒデ坊こと和田浩治さんが亡くなってもう36年も経つのですね。月日の流れの早さを感じます。最後に会ったのはいつだったかはっきりと覚えていませんが、ヒデ坊はすでにご結婚されていましたから私も葉山に住んでいた頃だったでしょうか。雑誌か何かの取材で、場所は確か新宿の喫茶店だったと記憶しています。お互いにとても懐かしく、別れ際に「元気でね!また会おうね!」と、どちらともなく言ったのを覚えています。まさか、それが最後になるとは夢にも思いませんでした。

ヒデ坊と最初に出会ったのは「無言の乱斗」(1959)で共演した時でした。まだ16歳という若さでしたから、やんちゃな少年という印象でした。実際、ロケーション先の旅館で、同年代の役者と一緒になってふざけてドタバタと廊下を走って、スタッフに怒られていました。またある時は、私のお弁当に好みのおかずを見つけて「これちょうだい!」と言い終わる前にお箸で摘んで持っていったりと、子供っぽくて苦笑することもしばしばありました。実の弟と同じ4歳年下でしたから、姉に甘えるような態度があっても大目に見てきたものです。

それでも演技に入ると真剣そのもので、とにかく一生懸命に頑張っているのがわかりましたから、どうしても憎めなかったですね。それに今思えば、相当なプレッシャーの中だったのではないでしょうか。裕ちゃんにどことなく風貌が似ているということで、日活としては第二の石原裕次郎として育てたい思いが強かったはずです。それを証拠にダイヤモンドラインのメンバーにも選ばれましたし、自分よりも年上の大先輩の中に囲まれていたら、背伸びもしたくなったことでしょうね。コンビを組んで15作品ほど共演しましたが、後半に入ると随分と大人びて落ち着いてきたのがわかりました。

ヒデ坊については以前にも書いたことがありましたが、私が日活を離れてからどのように活躍してきたのかはほとんど知りませんでした。その後、日活も衰退してヒデ坊もフリーになってからは、東映などの時代劇で活躍しているという話が耳に入ってきて、ホッとしたのを覚えています。あの若かった弟のようなヒデ坊も、役者として生きる道を見つけて頑張っているなと思っていた矢先に、訃報が届いたのです。まだ42歳、役者として脂が乗ってこれからという時に無念だったに違いありません。とても驚きましたし、悲しかったですね。

ヒデ坊との共演は、日活時代の中で最もボリュームがありました。そして、何といっても唯一のコンビでしたから、決して忘れることはできません。ヒデ坊との共演の中で、私自身も役者として大いに成長することができたことをとても感謝しています。今、私ができることは、ヒデ坊が活躍した記録を改めて日活ファンに紹介して振り返ることです。Instagramのフォロワーの方々とのコメントのやり取りの中で、ヒデ坊の魅力を伝えていくことが、今の私ができる恩返しなのかなと思っています。

ヒデ坊、あまりにも早い旅立ちに驚きと悲しさでいっぱいでした。ヒデ坊とコンビを組んだ数々の作品は、私の日活時代を語る時に欠かせない愛おしいものばかりです。本当にありがとう…。

次回は石原裕次郎さんについてお話しする予定です。

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