石原裕次郎さんとの出会い

石原裕次郎という人を初めて知ったのは、中学を卒業して室蘭文化学院に入ったばかりの頃だったでしょうか。当時「狂った果実」のポスターが、地元の映画館にデカデカと張り出されていたのを通学途中に見ていました。その頃から裕ちゃんの名前は、北海道の田舎町にも轟いてたのです。映画を観たことはなかったのですが、ポスターを眺めて子供ながらに「カッコいいお兄さんだなぁ」と思っていました。5人きょうだいの3番目で兄はいませんでしたので、裕ちゃんみたいなお兄さんがいたらいいのにと思っていたものです。

ところでデビュー直前の1957年の初詣に、家族で大笑いした出来事がありました。それは近所の八幡神社にお詣りした時におみくじを引いたのですが、そこには「石原裕次郎のような有名人になる」と書かれていたのです。単に「有名な人」ではなくて「石原裕次郎のような…」と書かれていた事に家族も皆、興味津々で私のおみくじを覗き込んだものです。片田舎の専門学校生の私が有名人になるとか、しかも石原裕次郎のような人気者になるなんて事は絶対にあり得ない話なので、馬鹿馬鹿しくって親たちも一緒になって大笑いしました。おみくじもその場でぽいっと捨ててしまったのです。取っておけば面白かったのに、勿体無いことをしました。

それにしても裕ちゃんは確か1956年にデビューしたばかりのはずでしたから、1957年のおみくじにその名前が刻まれるとは、どれほどセンセーショナルなデビューだったのでしょうか。流石、デビューして瞬く間に国民的な大スターになられたわけです。そして私はと言えば、おみくじを引いた年の春休みに長姉に唆されて日活のオーディションを受けて、あれよあれよと言う間にデビューを果たしました。そして、それから間もなくして本物の裕ちゃんと出会う運命だったとは…!おみくじを引いてから数ヶ月でこんなに状況が変わるなんて夢にも思いませんでした。

さて、一番最初に裕ちゃんの映画に出たのは1957年に公開された「嵐を呼ぶ男」でした。役名もなくエキストラのような出演で、作品の冒頭部分にチラッと登場したくらいのものでした。裕ちゃんとの絡みもなかったので撮影でお会いすることはなかったのですが、スタッフやキャストの緊張感や張り切り具合は他の映画とは少し違うような感じがしました。日活の看板俳優が主演となると、良い意味で撮影所の空気感が変わるのです。ですから本人に会わずとも、存在感が大いに感じられたのを覚えています。

その後、本格的に共演したのは、1958年に公開された「嵐の中を突っ走れ」です。裕ちゃんの最初の印象は、とにかく明るくて優しい人。後光が差しているかと思うくらいキラキラと光り輝いていました。スターのオーラというのを初めて感じた方です。この作品の私の役どころは、裕ちゃんが教員を務めるところの学生です。いきなり千葉の館山でのロケーションからの撮影でした。中原早苗さんをはじめほぼ同年代の女子学生役が集まりましたから、それはもう修学旅行気分でした。雨の日は撮影が中止になるので、みんなで裕ちゃんを揶揄って遊んだこともありました。

デビューしたばかりの私にとって、裕ちゃんは正にお兄さんのような存在でした。おまけにすごくスリムでスタイルも良くてカッコよかったのです。憧れの人と一緒に仕事ができるなんて夢のような時間でした。この映画の撮影から私のことは親しみを込めて「ちびマリ」と呼んでくれました。ちなみにこの作品でご一緒した白木マリさんは、裕ちゃんから「でかマリ」と呼ばれていました。

その後の共演作品は、1958年公開の役者として意気に燃えるきっかけとなった「赤い波止場」をはじめ「紅の翼」、1959年に「若い川の流れ」「天と地をかける男」、そして同年公開の「男なら夢をみろ」では初めて裕ちゃんの相手役に抜擢されました。最後の共演となったのは1960年公開の「鉄火場の風」でしたが、この作品についても裕ちゃんの相手役を演じました。本当にたくさんの思い出が詰まっている作品です。おかげさまで日活で数多くの作品に出演させて頂きましたが、裕ちゃんとの共演した映画はどれも印象に残るものばかりです。

私の役者としての人生において、多大なる影響をもたらしてくださった裕ちゃん。実は、夫である小髙の親友でしたので、プライベートでも長年に渡りお付き合いさせていただきました。裕ちゃんの命日が近づいてきましたが、次回は夫も含めたプライベートでの思い出についてお話しします。お楽しみに。

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