追悼 中山英子様

ひぃちゃんこと中山英子さんは、私と50年以上苦楽を共にしたパートナーでした。彼女が二十歳を過ぎたくらいのタイミングで、世田谷の家の家政婦として来てくれたのがきっかけで、長きにわたり小髙と私を支えてくれました。世田谷では通いでしたが、葉山からは同居をして私たちのお世話をしてくれていたのです。葉山から千葉、そして今回、北海道までついて来てくれました。血縁関係は全くないのですが、親きょうだいよりも長く一緒に住んでおりましたので、家族以上の関係と言っても良いくらいです。

ところで、小髙は病弱で十代の頃からあまり長生きができないだろうと言われておりました。俳優座でも舞台での埃に耐えられず日活に籍を移しましたが、多忙と飲酒で更に体調を悪化させてしまい、終には俳優業も断念することになってしまったわけです。その間も余命宣告を受けておりましたが、結果的に長生きができたのは、私の献身というよりも寧ろひぃちゃんが漢方などの勉強をして、その時の体調に合った漢方と食事療法を実践してくれたお陰だと思っています。もちろん、自然の中に身を委ねた暮らしの中でしたからより一層、その効果も発揮されたのかもしれません。いずれにしても、彼女なくしては私たち夫婦もそれまで円満に健康的に暮らすことはできませんでした。

話は遡りますが、世田谷時代は小髙もまだまだ俳優として活躍しておりましたし、私も日活から離れて忙しくしておりましたので、身の回りの事など一切をひぃちゃんにお願いしておりました。また、小髙と私がそれぞれロケーションで家を空けることがあっても、彼女がしっかり留守番をしてくれましたので、私たちが居なくても俳優仲間が訪ねて来られたのです。大蔵の撮影所からも近くて便利な場所だったため、葉山良二さんなんかは撮影の合間にでも、私たちが留守にしていようがいまいが気軽に昼寝しに来ていました。「なにか食べるものない?」などと言って、ひぃちゃんにリクエストして作ってもらったりもしたそうです。

そんなわけで私たちの仕事仲間にも親しまれていたひぃちゃんでしたが、後半は私のマネジメントも手伝ってくれました。彼女はとても聡明でしたので、仕事の取次などもしてくれていたのです。ロケーションにもついて来てくれましたし、本当にいろいろなことを器用にこなしてくれました。私は十代のころに家を出て仕事ばかりしてきたので、恥ずかしながらあまり家事をやってきませんでした。それにマネジメントも人任せでしたから、本当にできることが限られていたのです。ですからひぃちゃんに頼ることがどうしても多くなっておりました。

小髙が亡くなってからの生活でも、私をしっかり支え続けてくれました。千葉の田舎では暮らし難くなると考えて思い切って北海道に戻って来ましたが、私の暮らしが落ち着くまで一緒にいてくれるということで、わざわざついて来てくれたのです。彼女のご実家は栃木県ですが、いつでも温かく受け入れてくれる家族があるのにも関わらず、遥々北海道まで一緒に来てくれました。そこで、こんな私の為に献身的になってくれた彼女へのご恩返しの為にも、なんとかしっかりと生きていかなければならないと意を決して、ちょうど一年前から活動を再開することにしたわけです。ひとえに、ひぃちゃんの幸せな笑顔を見るために…。何としても彼女にはもっと幸せを感じて欲しかった。あの葉山での素晴らしい暮らしを心の支えにして、ここまで苦労してついて来てくれた気持ちに何とか報いたかったのです。

しかし、残念ながらそれも叶いませんでした。六月半ばに、あっという間にこの世を去ってしまったのです。三ヶ月間、病魔と必死に闘ってきましたが、とうとう力尽きてしまいました。享年74歳、あと数日で誕生日を迎える時でした。亡くなってからのこの二ヶ月余りの間、彼女のことを思い大変辛い日々を送ってまいりました。六年前に夫に先立たれた時も辛かったのですが、それ以上の悲しみに襲われました。あまりにも突然過ぎて、覚悟をしていなかったからかもしれません。なぜ年上の私を置いて先に逝ってしまったのでしょうか。正直に言って、彼女の死のショックから未だ立ち直ることができないでおります。でも、それでも、わたしは生きていかなければなりません。

その間、歯を食いしばって毎日のInstagramの更新も、欠かさず行ってきました。実際、彼女が亡くなる数日前に沢本忠雄さんの訃報が届き、衝撃を受けていたばかりだったのです。長く生きておりますけれど、こんなに辛く悲しい事が重なる事は滅多にありませんでした。このような状況の中、Instagramのフォロワーの方の存在が心の支えになりました。毎日のコメントが本当にありがたく、落ち込んでばかりはいられないと奮い立たせてくれているのです。辛い事は重なりましたが、活動を再開してよかったと思っております。本当に感謝の毎日です。そして自分ができる事は何なのか、改めて考えさせられております。命ある限りは一生懸命に生きていかなければならないからです。

※昨年の九月から毎週月曜日に投稿してまいりましたが、少しの間お休みすることにしました。また気持ちを新たにしてから再開いたします。

最後の別れ

2016年8月、久々に千葉の館山市に上陸した台風は猛威を振るって私たちの暮らしを直撃していました。倒木が道路を寸断し、夫の入院する長生病院に行けない日が一日だけあったのです。それは亡くなる前日のことでした。一週間に三つの台風が千葉を直撃し、自宅の屋根が損傷するほどの記録的な風雨に曝されていました。夫の様子が気になるも、自宅に閉ざされ屋根や窓を打ち付ける聞いた事もないような雨音に怯えていたことを、今でも思い出します。

思い返せばちょうど台風が近づいてくる直前の8月21日に、小高は救急車でかかりつけの長生病院に運ばれました。だいたい最後の一年は細かく入退院を繰り返していましたが、とにかく本人は入院しても「すぐに帰る」と言って聞かなかったものです。主治医の先生もできるだけ自宅で過ごす時間を長く持った方が良いという考えでしたので、今回もすぐに帰って来られるだろうと思っておりました。…しかし、それは叶いませんでした。

普段、病院にいても小髙は好きな音楽を聴き、窓から眺められる自然の景色を愛でながら静かに過ごしていました。よく小鳥の囀りも聴こえてきていたのですが、特に鶯の鳴き声には慰められると言っていました。もちろん私も、入院中は面会時間の7時から19時までフルに付き添っておりましたので、そこまで寂しさは感じていなかったと思います。でも台風の影響でたった一日だけ行けなかったその日に、小高は魘されながら私の名前を何度も呼んでいたそうなのです。

翌朝、一日ぶりで病院に駆けつけた時は、既に昏睡状態で口が利ける状態ではありませんでした。二日前までは普通に話もできたのに…前日に来られなかったことが悔やまれてなりませんでした。それでも主治医の先生は「耳はしっかり聴こえている筈ですから、とにかく声をかけてあげてください」と言って下さったので、必死に声をかけたことを覚えています。「ここに鞠子はいますよ!一緒におりますよ」と…。

2016年8月25日15時37分、小髙は静かにこの世を去りました。思えば60年近くもの間、夫の人生に寄り添い続けてきましたので、常に二人は一緒でした。覚悟をしていたとはいえ、実際に一人になる寂しさは例えようがありません。それでも私は生きていかなければならないのです。

「…爽やかな命と共に 風のようにあの世に行きます 皆さままたお会いしましょう さようなら」 小髙 尊

終戦記念日に思うこと

五歳の時に終戦を迎えましたから断片的な記憶しかありませんが、それでも戦争の恐ろしさを忘れることはできません。室蘭に生まれ育ち終戦も室蘭で迎えましたが、当時、家族は病気で寝たきりの曽祖母と祖父母、両親と姉二人と生まれたばかりの弟の九人でした。空襲警報が鳴ると寝たきりの曽祖母を残して、祖母と母が子供たちの手を引いて防空壕に逃げたのを思い出します。ある時は防空壕に逃げきれなくて、隣家の軒に身を隠したこともありました。とにかく警報が鳴ると恐ろしさと緊張感で冷や汗が出たのを思い出します。葉山に居た時、正午になると警報音と同じような音が鳴ったのですが、いちいち体が反応していました。辛く嫌な記憶が、冷汗と動悸を起こさせるのです。

当時、実家は雑貨店を営んでいましたから、日常生活に必要なものは一通り揃えていました。忘れもしないのは終戦の翌日のことです。体の大きいアメリカ兵達が自転車を担いで家の前の坂を登ってきた時に、雑貨店を荒らされるのではないかと母は肝を冷やしていました。鍵をかけて息を潜めて過ごしていたのを覚えています。それから、終戦後は極端な食糧難に陥っておりましたので、配給だけでは到底、生きられませんでした。大家族を抱える母は、どうしても闇市で手に入れざるを得なかったのです。汽車に乗って食料を調達してくるのですが、途中で官憲に見つかると没収されて線路にばら撒かれると聞いていたので、姉達と駅まで母を迎えに行った時に荷物を抱えているかどうか毎回、心配でした。

母が「晩ご飯よ」と声をかけてくれるのに「どうせご飯じゃなくて、お芋でしょう?!」と言ってしまって、大人達に苦笑されたのを覚えています。私は無邪気な未就学児童でしたので、当時の大人達がどれほど大変だったのかと思うと今になって申し訳ない気持ちになります。皆、生きるのに必死でした。そんな中にあって、闇市に行って食料を手に入れることを潔しとしない人もいました。近所に住む学校の先生でしたが、配給だけで過ごしていてとうとう餓死してしまったのです。子供ながらにどうしてなのか、理解できませんでした。ある意味、無法地帯において、生きることへの執着心を捨てては生きられないことを思い知らされたような気がします。同時に、何の罪もない人たちを国の都合で死に至らしめる戦争というものが憎くて仕方ありません。実際に戦時中に亡くなった方々だけでなく、戦争の煽りで戦後に命を落とす方も少なからずいたわけです。

現代においても、常に世界のどこかで戦争が行われている現実に胸を痛めます。何故、戦争が行われるのか。歴史を繰り返してもそこから学ぶ事を知らないのかと疑問に思います。国の都合で国民が、何の罪もない国民が死に追いやられる戦争を繰り返してはいけないのです。そのために、私たちも常に正しい情報を得て一人ひとりが考える事をやめてはいけないと思います。今日、終戦の日を迎えて改めて考えさせられています。

ところで、小髙は戦争に関する詩をたくさん遺していました。今日はその中からひとつ、ご紹介します。戦争の悲惨さを改めて考える契機にしていただければ幸いです。

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「影」 小髙 尊

人間のやさしさを

僕は信じてきた

広島・長崎の

無情は生涯

ゆるせない

人間の影だけ残る

広島の記憶ーーー

爪まで剥けた皮膚

母のまま炭になり

崩れ落ちた女性

人間をモルモットにした

戦争の記憶

詩 「いのち微笑む」

あなたの

毎日の微笑みは

私のともし火

あなたの

ひとすじの気持ちは

青空のようだ

海原のはるか

いのち微笑む

小髙が書いたこの詩は、私たちの半生記「いのち微笑む」(2000年)のタイトルになったものです。葉山にいた頃の作品です。俳優業を断念し、海辺での療養生活の中では数々の詩や俳句が生まれました。ことのほか膵臓の病が重く、救急車で搬送されることもしばしばありましたが、詩を書くことは決してやめませんでした。役者を断念しても表現者として生きていたかったのです。小髙にとって詩を書くことは、生きることそのものでした。

ところで、著書「いのち微笑む」の出版までの道のりは容易くありませんでした。実は、学研の木村編集長からのお声がけをいただいた当初、私たちは乗り気ではなかったのです。煌びやかな世界から離れ、病気と闘う夫とそれを支える妻の日常生活を赤裸々にしたところで、世の中の一体、何の役に立つのかわからなかったからです。それでも、私たちの生き方に共感を覚える方がいるのではないかという期待と、闘病の道半ばではあるけれど二人の半生を振り返ることは、残された時間をより豊かに生きるためにも必要だと考え、半生を纏める決心をしたのです。

この本は、二人の出会いからそれまでの記録について日々記していたものを編集したものですから、今読んでも生々しく記憶が蘇ります。また、随所に小髙の詩が織り込まれており、その時の心情が詩を通して読み取れるのです。詩の選定から編集まで細心の注意を払い時間をかけましたから、出版までに三年余の歳月を要しました。お陰で小髙も精魂を使い果たし、三年で体重が7、8キロも落ちてしまいましたが、充実感に漲っていたのを覚えています。産みの苦しみではありませんが、この本は二人にとって大事な子供のような作品になりました。

さて冒頭の詩ですが、闘病の最中に書かれたものでした。小髙の私への感謝の気持ちと、限りある命の大切さを謳ったものです。実際、病との闘いの辛さは想像を超えますが、それを支える側も大変なものでした。そんな中、わたしたち夫婦は言葉を交わさずとも、詩を読むことでお互いの理解を深め合うことができたのです。

振り向けば

とても幸せな歳月でした

青空はひとすじに

青ければいいーーー

皆様に

心からの感謝を込めて

(2000年9月18日)

出版から16年後、小髙は千葉の大海原に抱かれるように、静かにこの世を去りました。

千葉での暮らし~いづみちゃんとバラ園へ

葉山から千葉へ移ってきましたが、相変わらず毎日、海に出ていました。しかし、大海原は午前中は比較的に穏やかでも午後になると荒れてくることも多かったので、一日中ずっと浜辺で過ごすことはなくなりました。また、葉山の入り江とは違って、千葉の海は遊泳禁止になることもしばしばあったため、海に入り難いのです。それで当初は、勝浦の守谷海岸までわざわざ出掛けていました。白子から車で片道1時間くらいかけて行ったのを覚えています。

ところで、白子といえばテニスの合宿所としても有名ですが、私たちもよく近所のテニスコートに行って気軽にテニスを楽しんでいました。実は葉山の頃からテニスをしていたので、近所にテニスコートがあるというのも白子を選んだ理由のひとつでした。それから葉山と違って海で過ごす時間が短くなった分、小髙はずっとやってみたかった絵を描き始めました。もちろん詩や俳句も書き続けており、千葉に来てからはさらに創作意欲が掻き立てられていたようでした。

白子は都会から離れていましたし、なかなか気軽にお友達を誘うこともできなかったのですが、それでも何度も遊びに来てくれたのは芦川いづみさんこといづみちゃんです。いづみちゃんとは日活時代からとても親しくしていて、気の置けない友人の一人です。お住まいの横浜からは遠いのですが、それでも会いに来てくれて嬉しかったですね。白子の海はもちろん、他にもいろいろな所にご一緒して楽しい思い出が沢山あります。中でも「京成バラ園」に行ったのがとても印象に残っています。

その時はまるで大人の遠足気分でした。よく食べ、よく笑い、本当に楽しかったのです。バラの花の匂いを嗅ぎ比べる時の表情がお互いに面白くて、無邪気に笑ったのを覚えています。日活に入った頃はお互いにまだまだ若かったのですが、その頃に戻ったような感じになるのが不思議でした。いづみちゃんはお花が大好きで、今もご自宅ではたくさんのお花を育てているそうです。特に小さいバラが好きだとか。バラ園はとても見応えがあったので「またぜひ来たい!」なんて興奮気味に言ってました。

話は変わりますが、千葉はとても長閑で近所にも畑が多く、葉山とはまるで別世界でした。都会から離れていましたし、仕事に出掛けて行くのも億劫になってしまうような所でした。そんな中、引っ越しをして間もなくの頃だったでしょうか。元松竹のプロデューサーの名島さんと、学研の木村さんがわざわざ私たちを訪ねてきてくれたのです。ふたりは親友同士で仕事の繋がりはないとのことでしたが、小髙の闘病についての新聞記事を見て是非とも本にしたいとの申し出があったのです。それが「いのち微笑む」を世に送り出すきっかけとなりました。

…この続きは次回にお話しします。

大海原を求めて千葉へ(1997)

湘南国際村の開設のために始まった葉山町の山林の伐採工事の所為なのか、目の前の海に赤土が混ざるようになってきたのは、バブル真っ只中の事でした。私たちは少し浮世離れした暮らしをしていたので、世俗的な事には頓着しておりませんでしたが、海の色が変わってきた時には流石に世の中の変化を感じざるを得ませんでした。何しろ小髙の療養のために大好きな海を眺められるところに移り住んできたのに、海が汚れてきたのでは元も子もありません。一生を葉山で暮らすつもりでしたが、どうやらそれも叶わないと思い始めていました。

それまでの葉山の海はものすごく透明で、一度潜ればそこは竜宮城じゃないですけど、珊瑚に熱帯魚、季節ごとに変わる魚介類の宝庫であることがわかりました。とにかく毎日、素潜りで熱帯魚と一緒に戯れ、あるいは魚介類を素手で捕獲して新鮮なものを口にするというような豊かな生活をしていました。例えば、「ウニ丼が食べたい!」と思ったら、海に潜って獲ってそのまま食卓へ…なんてことはいとも簡単だったのです。当時は規制が緩かったので、全然お咎め無しどころか、ご近所の漁師さんや非番の警察官やら皆さん集って、楽しく浜辺でバーベキューなどワイワイやっていたものです。今ではとても想像もできない事でしょうね。

このように私たちはほぼ毎日、海に出ていましたが、自然と人が集まって来てくれました。葉山の住人は個性的な人が多かったのですが、気持ちにも余裕がある人ばかりでしたのでとても楽しかったものです。加えて我が家には、わざわざ葉山の自然を求めて来てくれる友人たちも沢山おりましたので、退屈する事はありませんでした。何より葉山での暮らしのお陰で、小髙の体調がひどく悪くなる事はほとんどなかったのです。振り返ってみても、小髙が思ったよりも長生きできたのは、澄み切った葉山の海のお陰なのです。

ところが、海の色が赤土で変わってきた途端になかなか人が集まらなくなりました。というのも海が汚れた所為で海藻類が死に、珊瑚が枯れて熱帯魚もいなくなってしまったからです。そして、海中の視界が悪くなってしまったので、素潜りがとても危険になりました。岩場も多く、ウツボなどの危険な生物は接近しなければその存在も確認し難かったからです。ですから海に潜ることも徐々にしなくなりました。それとは別に、家屋の維持も容易くありませんでした。茅葺き屋根を補修するにも職人が居なくなってしまって、なかなか思うようにもできなくなってしまったのです。

葉山を手放すのはとても惜しかったのですが、事情が事情だけに決断せざるを得ませんでした。そこでまた不動産屋の異名を持つ私の出番となったわけです。伊豆から湘南まで、マンションも視野に入れて探しました。仕事も考えて首都圏から遠く離れる事はできませんでしたので、エリアは限られていました。でも葉山が良すぎた所為で、なかなか思うように見つけられなかったのです。探し始めて一年くらい経った頃でしょうか、もともと葉山に住んでいた小髙の親しい友人から、千葉で探さないかと声をかけてもらったのです。

千葉の海というのはそれまでの選択肢には在りませんでしたが、せっかくなので探してみる事にしました。そうして偶然、広告にあった家が目に留まりました。その家は「陽のあたる坂道」に出てくるロケセットに雰囲気がそっくりだった上に、海まで徒歩で5分という願ってもない物件だったのです。そこは、小髙が好きだった高村光太郎の「智恵子抄」の智恵子が遊んだ砂浜に近い、九十九里浜にある白子町でした。全長60キロにも及ぶ砂浜は、葉山の箱庭のようなものとは対照的でした。九十九里浜の大海原に惹かれて、私たちは千葉に移り住む事に決めたのです。

次回は千葉での生活についてお話しする予定です。

洋上での最後の午餐

裕ちゃんこと石原裕次郎さんが亡くなる前の年の11月頃だったでしょうか。昼下がりに小髙と愛犬のムルソーを連れて葉山の海岸を散歩していた時、沖に派手なヨットが停泊しているのに気が付きました。確か龍が描かれたと思いますが、赤と黒のド派手なヨットは裕ちゃんのものに間違いありません。私たちは近所で親しくしている貸ボート屋の通称ピンちゃんのところに急いで行って、ムルソーを預かってもらい、手漕ぎボートを一艘借りました。ちなみにそのボートは最近、皇太子殿下に貸し出ししたばかりの新しいものとのこと。裕ちゃんの船のところに行くなら良いボートに乗って行ってほしいと、ピンちゃんも気を利かせてくれたのです。

小髙がボートを漕いで裕ちゃんのヨットに近づいたところ、クルーの一人が気付いてくれたので、私たちは大きく手を振りました。その時、裕ちゃんは背を向けてデッキに座っていましたが、クルーの呼びかけに応えて慌ててこちらに振り向き、驚いた表情から相好を崩して大きく手を振りながら「尊ちゃん!マリちゃん!これは神様の思し召しだね!!」と叫んだのです。まさかここで会えるなんて思ってもみなかったからでしょうけど…神様の思し召しだなんて、内心は大袈裟だなと思うよりも少しドキっとしていました。後から聞けば、小髙も同じように感じていたそうです。私たちは寂しいような、何かもう会えないような嫌な予感がしていました。

ところで、裕ちゃんと小髙は1958年公開の「陽のあたる坂道」で共演したのをきっかけに、親交を深めていました。小髙にとっては日活でのデビュー作でしたが、既に俳優座で舞台俳優として活躍していましたから、役者として裕ちゃんよりもキャリアはずっと長かったのです。また、小髙は役作りについては誰よりも拘りの強い人でしたから役者としてのプライドも高く、裕ちゃんも一目置く存在だったようです。年齢も一つ違いでしたから、私からみると「陽のあたる坂道」同様に二人は兄弟のような関係にも見えました。あるいは、お互いに真摯に向き合えるような真の友人関係だったといってもいいかもしれません。

役作りの話といえば、小髙が主演した1959年公開の「網走番外地」を参考にしたいと、裕ちゃんは単独で撮影所の試写室に行って熱心に観て研究していたこともあったそうです。因みにこの作品は、小高自身も相当に力を入れていたものでした。裕ちゃんは押しも押されもせぬ大スターでしたが、忙しい中にあっても影でどれほど努力をしていたものかと思います。また、役作りに関しては何かと小髙に客観的な意見を求めていたそうです。思い起こせば、小髙が本格的に療養生活に入る前までは、裕ちゃんと二人でよく飲みに行って深酒をすることもしばしばありました。彼らがまだまだ元気に活躍していた20代の頃ですが、一晩でお銚子を52本も空けたことがあったそうです。

ヨットでの話に戻りますが、裕ちゃんと小髙が会うのは本当に久しぶりのことでした。晩年はお互いに病気になってしまった所為で、なかなか会う機会が作れなかったのです。二人は音楽や絵画など芸術の分野についても話が合うそうで、そばで見ていても彼らの会話は常に弾んでいました。元々馬が合うのでしょうね。若い頃からお互いのことを理解し合っていましたから、会わない期間が長くても全く隔たりを感じていないようでした。そしてヨットの上での会話は、専ら健康についての話題でした。まだ50代に入ったばかりでしたし、病気が憎かったでしょうね。やりたいこともたくさんあったはずです。裕ちゃんは先にハワイに行ってるから、後で合流してほしいと話していました。海が大好きな彼らにとって、常夏のハワイは療養の地としてうってつけの場所だと考えていたのでしょう。

「俺のナポリタンは美味いんだよ」と言って、裕ちゃんご自慢のナポリタンと赤ワインを振る舞ってくれました。本当は裕ちゃんがフライパンを振りたかったのでしょうけど、その時はそれも叶わず専属の料理人が作ってくれました。裕ちゃんはすでに深刻な病に侵されていたのがわかっていたので、長居はできないと思いながらも2時間以上も一緒に過ごしたでしょうか。11月ですから日も短く、かなり肌寒かったのを覚えています。洋上でのささやかな宴は、悲しくも私たちが会う最後のものとなってしまいました。名残惜しくヨットを離れましたが、裕ちゃんはずっと私たちに手を振り続けてくれました。「本当にさようなら、ありがとう…」と言っているような気がしてなりません。今、こうしてその時のことを思い出しても涙が出てきてしまいます。もうこの世に裕ちゃんも、尊ちゃんもいないのですね…。

あれから35年の歳月が流れました。当時を知る日活の仲間も少なくなり、時代の流れを感じざるを得ません。私にとって今なお心の拠りどころは、あの日活の黄金時代です。その日活時代に、そして私たち夫婦の人生に、より一層の彩りを添えてくれた裕ちゃん。本当にありがとうございました。出逢えたことに心から感謝しています。

ハワイ旅行と突然の挙式

1981年4月12日、ハワイのホノルルにあるマキキ聖城基督教会にて、小髙と私の挙式が執り行われました。入籍してから実に12年後のことです。当時、偶然居合わせた日本人観光客の方たちにも飛び入りで参列をしていただき、ささやかながら心温まる挙式となりました。今振り返ってみても、とても幸せに満ち溢れたものでしたが、実は全く想定外の出来事だったのです。というのもこの挙式が実現したのは、長門裕之さんと南田洋子さん夫妻の計らいでハワイ旅行のついでに行われたものだったからです。それだけに驚きと感動で一生、忘れることのできないものになりました。

そもそもこのハワイ旅行は、晃夫ちゃん(長門裕之さんの本名)夫妻のハワイでのコマーシャル撮影が予定されていた折に、一緒に行かないかとお誘いを受けたものでした。その頃、小髙の体調は思わしくなかったのですが、ひょっとしたらハワイの温暖な気候で少しは良くなるのではないかと夫妻が気にかけてくださったのです。小髙は体力的に自信がなかったのでギリギリまで行くのを躊躇していましたが、それでもお言葉に甘えて思い切ってご一緒することにしました。私にとっては生まれて初めてのハワイ旅行でしたが、楽しみの反面、小髙の体が保つのか心配で仕方がありませんでした。

さて、当時は日本の景気も上り坂で沢山の日本人がハワイへ観光に来ていた時代でした。温暖な気候と美しい自然が魅力のハワイですが、ホテルのバルコニーから目の前に広がる海を見た瞬間、小髙も私も思わず歓声を上げました。お天気も良く湿気が少ないので空気が軽くて気持ちがいいし、葉山で毎日眺めている穏やかな海は小ぢんまりとした箱庭のようでしたが、ハワイの海は壮大でスケールがまるで違うものでした。健康の不安も一気に吹き飛んだ感じで、飛行機の中では具合悪そうにしていた夫の表情が、笑顔と共にみるみる明るくなっていったのを覚えています。

ところで、ハワイに着いた翌日のこと、思い掛けず洋子さんがホテルの部屋に真っ白な衣装を届けてくれました。それは伝統的なハワイの婚礼用の衣装で、袖に大きなレースがあしらわれた上着と、男女ともにスラックスを組み合わせたセットアップでした。実は、行きの飛行機の中で晃夫ちゃんから挙式をしたかどうか、さらりと質問を受けていました。イタリアで行う予定がキャンセルになって以来、実現していませんでしたが、晃夫ちゃん夫妻の粋な計らいで私たちはとうとうハワイで挙式をすることになったのです。式場の手配から衣装のこと、おまけにコマーシャルの撮影隊も一緒に来ていたので、都合よく結髪さんの果てまで全て手配してくれました。そうそう、ギリギリまで指輪の準備をしていなくて、晃夫ちゃんと小髙が慌てて指輪を調達してくれました。それは決して高価な物ではないのですが、薔薇の花をあしらった珊瑚の指輪で、今でも大事な私の宝物です。

ようやく実現した挙式でしたが、それまで半ば諦めていたものですから感激もひとしおでした。ウェディングドレスではなくパンツスタイルというのも、自分のキャラクターに似合っていたように思います。入籍してから12年目で私たち夫婦も地に足が付いたものでしたが、気持ちも新たに身が引き締まる思いがしたのを覚えています。あれから41年…今から思えばちょうど折り返しの時点でした。振り返れば小髙も6年前に身罷りましたし、本当に色々な事がありました。たかが挙式、されど挙式ではありませんが、夫婦としてのけじめが付けられた事は、その後の私たちの人生にとって大いなる意義がありました。なにしろ、最後まで添い遂げる事ができて、私も第二の人生を胸を張って生きていけるのですから…。

次回は、ドラマ「北の国から」についてお話しする予定です。

夫の療養生活と仕事の配分

どうにか小髙も日常生活を送れるほどに回復しましたが、俳優の仕事をする事はできなくなりました。日活を離れてから石原プロモーションに所属したので、仕事のオファーはいくつもありました。中には小髙と是非とも仕事がしたい監督からの直々の申し出もありましたし、裕ちゃんもかなり気にしてくれていました。何とか復帰してもらいたいと熱心に説得したかったようなのですが、当の本人が諦めてしまっていたのです。思うような役作りができるような体力を失っていたので、中途半端な仕事をするぐらいならキッパリと辞めてしまいたいと考えていました。いつ発作が起きてもおかしくない状態でしたので、致し方なかったのかなと思います。

ところで、小髙は幼少の頃から詩を書いておりましたから、葉山の生活でも自然と詩を書くことが日常となりました。自然の恵みの中で、自由に思うまま筆を運んでいたのをそばで眺めていて、小髙の生きる目的がはっきりと見えてきたのがわかりました。俳優としての夢は破れましたが、新たに生きる希望を見出せたことは何よりの事でした。しかし、それは同時に夫の収入がほとんど見込めないことを意味するものでした。夫の療養に寄り添いたい気持ちを抑えて、仕事に完全復帰すべきかどうかとても悩みました。

実は以前、世田谷にいた時にも悩ましい時期がありました。小髙が余命宣告を受けた時です。ある日、離婚をして仕事に打ち込んではどうかと提案してきたのです。今思えば、私に離婚する意思がない事がわかっていた上での発言に違いないのですが、夫も相当不安だったのでしょうね。その時点で、自分にとっての価値ある生き方とは、離婚してまで俳優としての仕事をすることではないとはっきりとわかっていました。まして、余命宣告を受けている夫を放ってまで仕事ができるものでしょうか。精一杯、最後までそばに居たいと思っていました。

そして、葉山に住み始めて小髙もようやく日常生活を送れるようになり、改めてプライベートと仕事の配分をどのようにすべきかを考えた時、それは同時に自分の人生を見つめ直す機会となりました。夫とあと何年一緒に暮らせるかわからない中、葉山で過ごす時間を大切にしたい思いが強くありました。そこで、お金では決して買えない価値ある時間を過ごすために、逆にどのくらい仕事をするべきかを考えたのです。日活を離れて俳優としてのキャリアを積むため必死に仕事をこなしてきましたが、それを半ば捨てる覚悟で仕事を選ぶ事にしました。

結局、できるだけ葉山から離れる事のない仕事を選んだおかげで、徐々に仕事の依頼は減ってしまいました。当然の結果ですが、一枚看板というわけにはいかなくなりました。その所為もあってか、困った事に日焼けした肌の色は濃くなる一方となったのです。

次回はハワイでの突然の挙式ついてお話しします。

砂浜の奇跡

瀕死の状態と言っては大袈裟かもしれませんが、小高は余命も宣告されておりましたのでほとんど寝たきりの状態で葉山に移ってきました。海が手に届くところにあるのに、そこに辿り着けないもどかしさを感じていたでしょうから、どうにか抱えて砂浜まで連れて行くことにしたのです。砂浜は目の前に、歩いて一分もかからない距離でした。ようやくふたりが素足で砂浜に下りた時、砂の温かさに体中が包まれるような感じがしました。小髙は時間をかけて静かに砂浜に横たわり、そして目を瞑りました…自然の力を全身で受け取るかのように。私たちは海風を感じながら、自然の中で過ごせる幸せを噛み締めていました。

葉山での生活は、午前中はのんびりと自宅で過ごして、お天気が良ければ午後からは砂浜へ行くのが日課となりました。おにぎりを作って持って行き、何時間も砂浜に寝転がって過ごすのです。小髙は極力、入院したがりませんでしたので、静かに過ごす他はありませんでした。それで私も、仕事は小髙の体調を考慮して少しずつセーブすることにしていました。実際、夫がこの状態では、仕事もそんなにしている場合ではなかったのです。

毎日、ふたりで砂浜で過ごすようになってから、徐々に小髙も正気を取り戻しているのが手に取るようにわかりました。砂浜は歩くも良し、寝転がるも良し、とにかく砂が肌に触れると健康になれる気がしたのです。何時間でも砂浜で過ごしたくなりました。それから少しずつ海に入ることにしました。すると「水を得た魚」ではありませんが、みるみる元気になっていったのです。葉山に越してきたのが2月でしたが、夏が過ぎて秋になる頃には普通に日常生活が送れるほどになっていました。最初はどうなることかと思いましたが、自然の中で過ごすことがどんな治療にも勝ることか。今、振り返ってもこれは砂浜の奇跡でした。小髙は、砂浜で、葉山の海で、奇跡的に回復したのです。

でも、副作用もありました。それは私に…。ひどく日焼けしてしまって、気がついたら真っ黒に!マネージャーの小橋さんからは「仕事が来なくなるから、これ以上日焼けはしないように」と心配されたものです。女優が日焼けするなんてもっての外でした。マネージャーだけでなく周囲の人も心配するほどでしたが、そんな事はお構いなし。だって、小髙が回復したのですから。私には仕事よりも夫が優先だったのです。

次回は夫の療養と仕事との両立についてお話しする予定です。

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