洋上での最後の午餐

裕ちゃんこと石原裕次郎さんが亡くなる前の年の11月頃だったでしょうか。昼下がりに小髙と愛犬のムルソーを連れて葉山の海岸を散歩していた時、沖に派手なヨットが停泊しているのに気が付きました。確か龍が描かれたと思いますが、赤と黒のド派手なヨットは裕ちゃんのものに間違いありません。私たちは近所で親しくしている貸ボート屋の通称ピンちゃんのところに急いで行って、ムルソーを預かってもらい、手漕ぎボートを一艘借りました。ちなみにそのボートは最近、皇太子殿下に貸し出ししたばかりの新しいものとのこと。裕ちゃんの船のところに行くなら良いボートに乗って行ってほしいと、ピンちゃんも気を利かせてくれたのです。

小髙がボートを漕いで裕ちゃんのヨットに近づいたところ、クルーの一人が気付いてくれたので、私たちは大きく手を振りました。その時、裕ちゃんは背を向けてデッキに座っていましたが、クルーの呼びかけに応えて慌ててこちらに振り向き、驚いた表情から相好を崩して大きく手を振りながら「尊ちゃん!マリちゃん!これは神様の思し召しだね!!」と叫んだのです。まさかここで会えるなんて思ってもみなかったからでしょうけど…神様の思し召しだなんて、内心は大袈裟だなと思うよりも少しドキっとしていました。後から聞けば、小髙も同じように感じていたそうです。私たちは寂しいような、何かもう会えないような嫌な予感がしていました。

ところで、裕ちゃんと小髙は1958年公開の「陽のあたる坂道」で共演したのをきっかけに、親交を深めていました。小髙にとっては日活でのデビュー作でしたが、既に俳優座で舞台俳優として活躍していましたから、役者として裕ちゃんよりもキャリアはずっと長かったのです。また、小髙は役作りについては誰よりも拘りの強い人でしたから役者としてのプライドも高く、裕ちゃんも一目置く存在だったようです。年齢も一つ違いでしたから、私からみると「陽のあたる坂道」同様に二人は兄弟のような関係にも見えました。あるいは、お互いに真摯に向き合えるような真の友人関係だったといってもいいかもしれません。

役作りの話といえば、小髙が主演した1959年公開の「網走番外地」を参考にしたいと、裕ちゃんは単独で撮影所の試写室に行って熱心に観て研究していたこともあったそうです。因みにこの作品は、小高自身も相当に力を入れていたものでした。裕ちゃんは押しも押されもせぬ大スターでしたが、忙しい中にあっても影でどれほど努力をしていたものかと思います。また、役作りに関しては何かと小髙に客観的な意見を求めていたそうです。思い起こせば、小髙が本格的に療養生活に入る前までは、裕ちゃんと二人でよく飲みに行って深酒をすることもしばしばありました。彼らがまだまだ元気に活躍していた20代の頃ですが、一晩でお銚子を52本も空けたことがあったそうです。

ヨットでの話に戻りますが、裕ちゃんと小髙が会うのは本当に久しぶりのことでした。晩年はお互いに病気になってしまった所為で、なかなか会う機会が作れなかったのです。二人は音楽や絵画など芸術の分野についても話が合うそうで、そばで見ていても彼らの会話は常に弾んでいました。元々馬が合うのでしょうね。若い頃からお互いのことを理解し合っていましたから、会わない期間が長くても全く隔たりを感じていないようでした。そしてヨットの上での会話は、専ら健康についての話題でした。まだ50代に入ったばかりでしたし、病気が憎かったでしょうね。やりたいこともたくさんあったはずです。裕ちゃんは先にハワイに行ってるから、後で合流してほしいと話していました。海が大好きな彼らにとって、常夏のハワイは療養の地としてうってつけの場所だと考えていたのでしょう。

「俺のナポリタンは美味いんだよ」と言って、裕ちゃんご自慢のナポリタンと赤ワインを振る舞ってくれました。本当は裕ちゃんがフライパンを振りたかったのでしょうけど、その時はそれも叶わず専属の料理人が作ってくれました。裕ちゃんはすでに深刻な病に侵されていたのがわかっていたので、長居はできないと思いながらも2時間以上も一緒に過ごしたでしょうか。11月ですから日も短く、かなり肌寒かったのを覚えています。洋上でのささやかな宴は、悲しくも私たちが会う最後のものとなってしまいました。名残惜しくヨットを離れましたが、裕ちゃんはずっと私たちに手を振り続けてくれました。「本当にさようなら、ありがとう…」と言っているような気がしてなりません。今、こうしてその時のことを思い出しても涙が出てきてしまいます。もうこの世に裕ちゃんも、尊ちゃんもいないのですね…。

あれから35年の歳月が流れました。当時を知る日活の仲間も少なくなり、時代の流れを感じざるを得ません。私にとって今なお心の拠りどころは、あの日活の黄金時代です。その日活時代に、そして私たち夫婦の人生に、より一層の彩りを添えてくれた裕ちゃん。本当にありがとうございました。出逢えたことに心から感謝しています。

石原裕次郎さんとの出会い

石原裕次郎という人を初めて知ったのは、中学を卒業して室蘭文化学院に入ったばかりの頃だったでしょうか。当時「狂った果実」のポスターが、地元の映画館にデカデカと張り出されていたのを通学途中に見ていました。その頃から裕ちゃんの名前は、北海道の田舎町にも轟いてたのです。映画を観たことはなかったのですが、ポスターを眺めて子供ながらに「カッコいいお兄さんだなぁ」と思っていました。5人きょうだいの3番目で兄はいませんでしたので、裕ちゃんみたいなお兄さんがいたらいいのにと思っていたものです。

ところでデビュー直前の1957年の初詣に、家族で大笑いした出来事がありました。それは近所の八幡神社にお詣りした時におみくじを引いたのですが、そこには「石原裕次郎のような有名人になる」と書かれていたのです。単に「有名な人」ではなくて「石原裕次郎のような…」と書かれていた事に家族も皆、興味津々で私のおみくじを覗き込んだものです。片田舎の専門学校生の私が有名人になるとか、しかも石原裕次郎のような人気者になるなんて事は絶対にあり得ない話なので、馬鹿馬鹿しくって親たちも一緒になって大笑いしました。おみくじもその場でぽいっと捨ててしまったのです。取っておけば面白かったのに、勿体無いことをしました。

それにしても裕ちゃんは確か1956年にデビューしたばかりのはずでしたから、1957年のおみくじにその名前が刻まれるとは、どれほどセンセーショナルなデビューだったのでしょうか。流石、デビューして瞬く間に国民的な大スターになられたわけです。そして私はと言えば、おみくじを引いた年の春休みに長姉に唆されて日活のオーディションを受けて、あれよあれよと言う間にデビューを果たしました。そして、それから間もなくして本物の裕ちゃんと出会う運命だったとは…!おみくじを引いてから数ヶ月でこんなに状況が変わるなんて夢にも思いませんでした。

さて、一番最初に裕ちゃんの映画に出たのは1957年に公開された「嵐を呼ぶ男」でした。役名もなくエキストラのような出演で、作品の冒頭部分にチラッと登場したくらいのものでした。裕ちゃんとの絡みもなかったので撮影でお会いすることはなかったのですが、スタッフやキャストの緊張感や張り切り具合は他の映画とは少し違うような感じがしました。日活の看板俳優が主演となると、良い意味で撮影所の空気感が変わるのです。ですから本人に会わずとも、存在感が大いに感じられたのを覚えています。

その後、本格的に共演したのは、1958年に公開された「嵐の中を突っ走れ」です。裕ちゃんの最初の印象は、とにかく明るくて優しい人。後光が差しているかと思うくらいキラキラと光り輝いていました。スターのオーラというのを初めて感じた方です。この作品の私の役どころは、裕ちゃんが教員を務めるところの学生です。いきなり千葉の館山でのロケーションからの撮影でした。中原早苗さんをはじめほぼ同年代の女子学生役が集まりましたから、それはもう修学旅行気分でした。雨の日は撮影が中止になるので、みんなで裕ちゃんを揶揄って遊んだこともありました。

デビューしたばかりの私にとって、裕ちゃんは正にお兄さんのような存在でした。おまけにすごくスリムでスタイルも良くてカッコよかったのです。憧れの人と一緒に仕事ができるなんて夢のような時間でした。この映画の撮影から私のことは親しみを込めて「ちびマリ」と呼んでくれました。ちなみにこの作品でご一緒した白木マリさんは、裕ちゃんから「でかマリ」と呼ばれていました。

その後の共演作品は、1958年公開の役者として意気に燃えるきっかけとなった「赤い波止場」をはじめ「紅の翼」、1959年に「若い川の流れ」「天と地をかける男」、そして同年公開の「男なら夢をみろ」では初めて裕ちゃんの相手役に抜擢されました。最後の共演となったのは1960年公開の「鉄火場の風」でしたが、この作品についても裕ちゃんの相手役を演じました。本当にたくさんの思い出が詰まっている作品です。おかげさまで日活で数多くの作品に出演させて頂きましたが、裕ちゃんとの共演した映画はどれも印象に残るものばかりです。

私の役者としての人生において、多大なる影響をもたらしてくださった裕ちゃん。実は、夫である小髙の親友でしたので、プライベートでも長年に渡りお付き合いさせていただきました。裕ちゃんの命日が近づいてきましたが、次回は夫も含めたプライベートでの思い出についてお話しします。お楽しみに。

ヒデ坊との思い出

ヒデ坊こと和田浩治さんが亡くなってもう36年も経つのですね。月日の流れの早さを感じます。最後に会ったのはいつだったかはっきりと覚えていませんが、ヒデ坊はすでにご結婚されていましたから私も葉山に住んでいた頃だったでしょうか。雑誌か何かの取材で、場所は確か新宿の喫茶店だったと記憶しています。お互いにとても懐かしく、別れ際に「元気でね!また会おうね!」と、どちらともなく言ったのを覚えています。まさか、それが最後になるとは夢にも思いませんでした。

ヒデ坊と最初に出会ったのは「無言の乱斗」(1959)で共演した時でした。まだ16歳という若さでしたから、やんちゃな少年という印象でした。実際、ロケーション先の旅館で、同年代の役者と一緒になってふざけてドタバタと廊下を走って、スタッフに怒られていました。またある時は、私のお弁当に好みのおかずを見つけて「これちょうだい!」と言い終わる前にお箸で摘んで持っていったりと、子供っぽくて苦笑することもしばしばありました。実の弟と同じ4歳年下でしたから、姉に甘えるような態度があっても大目に見てきたものです。

それでも演技に入ると真剣そのもので、とにかく一生懸命に頑張っているのがわかりましたから、どうしても憎めなかったですね。それに今思えば、相当なプレッシャーの中だったのではないでしょうか。裕ちゃんにどことなく風貌が似ているということで、日活としては第二の石原裕次郎として育てたい思いが強かったはずです。それを証拠にダイヤモンドラインのメンバーにも選ばれましたし、自分よりも年上の大先輩の中に囲まれていたら、背伸びもしたくなったことでしょうね。コンビを組んで15作品ほど共演しましたが、後半に入ると随分と大人びて落ち着いてきたのがわかりました。

ヒデ坊については以前にも書いたことがありましたが、私が日活を離れてからどのように活躍してきたのかはほとんど知りませんでした。その後、日活も衰退してヒデ坊もフリーになってからは、東映などの時代劇で活躍しているという話が耳に入ってきて、ホッとしたのを覚えています。あの若かった弟のようなヒデ坊も、役者として生きる道を見つけて頑張っているなと思っていた矢先に、訃報が届いたのです。まだ42歳、役者として脂が乗ってこれからという時に無念だったに違いありません。とても驚きましたし、悲しかったですね。

ヒデ坊との共演は、日活時代の中で最もボリュームがありました。そして、何といっても唯一のコンビでしたから、決して忘れることはできません。ヒデ坊との共演の中で、私自身も役者として大いに成長することができたことをとても感謝しています。今、私ができることは、ヒデ坊が活躍した記録を改めて日活ファンに紹介して振り返ることです。Instagramのフォロワーの方々とのコメントのやり取りの中で、ヒデ坊の魅力を伝えていくことが、今の私ができる恩返しなのかなと思っています。

ヒデ坊、あまりにも早い旅立ちに驚きと悲しさでいっぱいでした。ヒデ坊とコンビを組んだ数々の作品は、私の日活時代を語る時に欠かせない愛おしいものばかりです。本当にありがとう…。

次回は石原裕次郎さんについてお話しする予定です。

追悼 サワタボさん

このような文章を投稿することになるとは夢にも思いませんでした。サワタボさんがお亡くなりになったなんて、未だ信じられない気持ちです。つい先日もお電話したばかりでした。その時は「明日はゴルフだから」って仰ってたんですよ。高齢なのに普通にラウンドできるなんて本当にお元気だなって、感心していたところでした。コロナ禍でなければ早々に松阪に伺いたかったのですが、それも叶わずとても残念です。再会を果たせず本当に悔しいです。早過ぎですよ、サワタボさん!あんなにお元気そうだったのに…、突然の悲しいお知らせに未だショックを拭えません。

サワタボさんとの出会いは日活映画でしたが、コンビを組んでいたわけではありませんでしたのでそれほど共演数は多くありませんでした。しかし、偶然にもお互いの主演作品に相手役で共演していました。サワタボさんが主演の「銀座ジャングル娘」(1961)は、渡辺マリさんのヒット曲に乗せた軽快な喜劇でした。春原政久監督の作品でしたし、撮影現場はとても明るく楽しいものでした。それから同じく春原監督で私の初の主演作品「カミナリお転婆娘」(1961)、他には森永健次郎監督の作品で「十代の河」(1962)もありましたね。どれもSPですが、私にとっては印象深い作品ばかりです。お互いにデビューした時期も近かったですし、日活が一番輝いていた時代を共にした仲間との共演は、決して忘れることはできません。

当時の日活は裕ちゃんを筆頭に個性的な役者が揃っていました。中でもサワタボさんは今でいうところの「爽やかイケメン枠」でしょうか。性格もイケメンで明るくて、見た目そのままの素敵な好青年でした。サワタボさんは実際、私より少し年上ですが、いつも目線を合わせてくれるので年齢差を感じた事がありませんでした。そのくらい大人で気さくな方でしたから、いつも気持ちよく仕事をさせていただきましたね。当時は「三悪トリオ」のメンバー(他に小林旭さんと川地民夫さん)だったそうですが、悪のイメージは全くないので個人的には少し違和感を覚えます。

ところで、私は1963年に日活を離れましたが、どうやらサワタボさんも同じ時期だったようなのです。当時は自分のことで精一杯でしたから、他のメンバーの動向などは後で知ることが多くありました。そんな訳である日、ドラマでご一緒する機会にサワタボさんも日活を離れたことを知りました。サワタボさんのマネージャーは松村さんという方でしたが、偶然にも私がお世話になっていた小橋マネージャーの旦那さんだったのです。私たちは松村さんと小橋さんが運営する事務所に所属していましたから、道理でドラマでご一緒する機会も多かったのです。こうして、日活を離れた後もサワタボさんとはご縁がありました。

その後、私も夫の闘病生活に付きっきりで随分と仕事を離れておりましたから、仕事の関係者とは殆ど連絡を取っておりませんでした。サワタボさんとも活動を再開してから本当に久しぶりにお電話をしたくらいです。当初は、知らない番号だと思われて3回くらいキャンセルされてしまいましたけど、しつこく掛けたら出てくださいました。そうそう、以前にサワタボさんと共演したドラマ「白い魔魚」(1965年)について投稿したことがありました。私の主演ドラマでしたが、あまり詳しく覚えていなくてサワタボさんにお電話したんです。そうしたら「俺、全然覚えてないから!」って即答されてしまいました。…それも今年に入ってからのやり取りでしたね。

サワタボさんとドラマの共演をした後は殆ど連絡を取ることはありませんでしたので、その後の活動のことは再会した時に是非ぜひお話を聞きたいと思っておりました。本当に残念で仕方ありません。それでという訳ではありませんが、訃報に接してからサワタボさんのご著書がある事を知り、手に入れて今、読んでいます。ご著書「役者人生ひとり旅」には、日活時代の知らなかったエピソードがたくさんあって興味深いですし、フリーになられた後は舞台を随分やられていた事など知らない事がたくさん書かれていました。実際にお会いして懐かしいお話もたくさんしたかったですね。返す返すもとても残念でなりません。

長くなってしまったけれど、ひとつ思い出した事がありました。世田谷に住んでいた頃、小髙と一緒にサワタボさんの家に遊びに行った事がありました。サワタボさんの玄関には水槽があって、綺麗な熱帯魚が飼われていたのです。当時はとても珍しかったので、小髙も私も興味深く水槽を覗いていたら「尊ちゃん、良いでしょう⁈結構、楽しいから!」と言われて、それから私たちもノリノリ(?)で熱帯魚を飼った事がありました。小髙は凝り性なので、大きな水槽に珍しい熱帯魚を一時期、100匹ほど飼っていたかしら…今ではそれも良い思い出です。

昨今は昭和ブームだそうで、昔の日活映画もたくさん配信されています。残念ながら亡くなられた役者も多くなってしまいましたが、映画の中でいつまでも生き続けてくれているのが嬉しいですね。サワタボさんにとっても、日活での活躍がその後の役者人生の支えになっているのではないでしょうか。数少ない共演ではありましたが、写真と共に振り返りながら当時の日活の魅力、サワタボさんの魅力を伝え続けていく事が、残された日活の仲間としてできることなのかなと思っています。

サワタボさん、日活の仲間として出会えたことを心から感謝しています。どうか安らかにお眠りください。本当にお疲れ様でした。そして、ありがとうございました。

田中邦衛さんの一周忌に寄せて

田中邦衛さんと初めてお会いしたのは、「北の国から」の本読みでご一緒した時でした。邦衛さんは俳優座のご出身で小髙の後輩でしたし、存じ上げてはいたのですが、実際にお会いしたのはこの時が初めてでした。そして最近、日活を振り返る活動をしている中で、意外にも邦衛さんが日活映画に出演されていたのを知って驚きました。小髙とも共演しており、スチール写真も自宅にちゃんと保管してありました。日活時代に全くお会いする機会がなかったのは、とても残念に思います。

ところで、俳優座出身の皆さんは小髙のことを気軽に「尊ちゃん(そんちゃん)」と呼んでくださっている中で、邦衛さんは「小髙さん」と呼んでくださっていました。年齢は小髙よりも一つ年上でしたし、気軽にお呼びいただいてもよかったのですが、俳優座で後輩だったという姿勢を崩すことなく、気を遣われていたんですね。そして、病気療養をして俳優としての仕事ができなくなってしまった小髙を気遣ってか「小髙さんはお元気にしておられますか?」と、お会いする度に必ず声をかけてくださったのです。とても紳士で、礼儀の正しい方でしたね。邦衛さんとお会いすると、温かい気持ちになったのを覚えています。

話は「北の国から」に戻りますが、ロケ地は北海道の富良野市で、役者やスタッフの定宿は富良野プリンスホテルが指定されておりました。ロケ地に前日入りしたある日、夕食には少し早かったのですが、一人でしたし簡単に済ませてしまおうとレストランに向かいました。中途半端な時間でしたのでどなたもいらっしゃらないと思っていたら、邦衛さんがお一人で入って来られたのです。奇遇な事でしたからお互いに少し驚いたところで、邦衛さんに席をご一緒しないかと誘われました。照れ屋な邦衛さんらしく、口を尖らせながら「まゆみさん、ワインでもどお?」って気軽に声をかけてくださったのです。実は、それまで小髙以外の男性と二人でワインを飲んだことが一度もなかったので、正直言って少し戸惑いましたが、せっかくの機会なのでご一緒させていただくことにしました。

ほんのひと時でしたが、邦衛さんとワインをいただきながら和やかに過ごしたのを覚えています。とても貴重な思い出です。ドラマは長期に渡りシリーズ化されましたが、小髙の療養も考慮していただき出番を少なめにしていただいたこともあって、後にも先にも邦衛さんとお食事をご一緒したのはその一度きりでした。ドラマも2002年で区切りがついてから小髙の看病に専念しましたので、その後に邦衛さんとお会いする機会は、残念ながらありませんでした。

邦衛さんがお亡くなりになってから早一年、お世話になったお礼の言葉を直接、伝えることはできませんでしたが、今回このような形で思い出を語ることができて、気持ちが少し楽になりました。気になっておりましたので、本当に良かったと思っております。この年齢になりますと、別れが多くなるのは仕方のないことですが、元気なうちに出逢った方々に感謝の気持ちをお伝えしていかなければならないと思っております。

日活を離れて気付いたこと

1963年に日活を離れてから、まず初めに松竹映画に出演しました。松竹とは、年に4本の映画に出演する契約を交わしておりましたが、その記念すべき第1作目は、「結婚の設計」(1963年公開)という岩下志麻さんとの共演作品でした。それまで私自身も60本を超える映画に出演しておりましたから、もちろん撮影現場には慣れておりました。役者の仕事、という面では日活であろうと松竹であろうと何ら変わるものではありません。また、共演した志麻さんとは同世代でしたし、聡明で気さくな方でしたから、とても気持ちよく仕事をさせていただいたのを覚えています。フリーになってからの初仕事でしたし、とても印象に残る作品のひとつでもありました。

ところで、日活と松竹の印象の違いはといえば、日活は「若さ溢れる雰囲気」であるのに対し、松竹は「大人の雰囲気」でした。所属している人たちの年齢層は両社ともそれほど変わらないものでしたが、松竹はとても落ち着いてみえたのです。おそらく、仕事とプライベートがきっちり分けられていたからではないでしょうか。例えば、松竹では撮影後の休憩や食事を共演者同士が一緒に過ごすことは滅多にありませんでした。これに対し、日活は仕事もプライベートも一緒に楽しくワイワイやっていたものです。上下関係も厳しくなく、主役も脇役もスタッフも一緒になって楽しんでおりました。言ってみたら、学生のノリみたいな感じです。どちらがいいとか悪いとかではなく、雰囲気の違いにとても驚いたのを覚えています。いわばカルチャーショックでした。

おそらく、作品の違いにもその傾向は現れていたように思われます。例えば、日活は漫画のようなアクション映画のシリーズものや喜劇が多かったのに対し、松竹は原作ものが中心でした。私自身、原作もののシリアスな作品にもっと出逢いたいという思いが強くありましたので、松竹映画に出演することは願ってもないことでした。そして、今振り返ってみても、日活を離れることは役者としての幅を広げるために必要な経験でした。カルチャーショックを乗り越えるのは容易ではありませんでしたが、役者としてのみならず、自分自身の成長にも必要な過程だったと思います。

当時の日本は今とは違い、年功序列で終身雇用が当たり前の時代でした。一旦就職すれば、道筋はつけられていたものです。しかし、役者の世界では五社協定はあったものの、いわゆるサラリーマンのような縛りはありません。常に個人の能力が問われましたし、役者としての成長は如何に経験を積んでいくかに係っていました。そして実力がなければ、使ってはもらえません。役者は映画やドラマに不可欠ですが、自ら制作に関わる以外は受け身です。声が掛からなければ、出演機会は得られないシビアな世界なのです。日活にいた頃は、そのような心配はほぼ無用でしたが、フリーになってからは現実の厳しさを思い知ることになりました。

それにしても、日活での経験は私自身を支えるものでした。日活俳優の価値がどの程度のものなのか、周囲も私の力量を測っていたように思います。実際、日活の明るく楽しい雰囲気の中で自然と培われてきたものは揺るぎなく、新しい世界への挑戦に自信と勇気を与えるものでした。このことは、日活を離れてから初めて実感できたことです。そして、何より小髙の存在が私をより一層、自由に羽ばたかせてくれておりました。そばに俳優の実力者が居るというだけで、精神的な余裕をもたらしてくれていたのです。

次回は、田中邦衛さんについてお話しします。

フリーになるまでの道のり

日活を離れることを決意してから1年以上かかって、ようやくフリーになりました。しかし、その道のりは決して容易いものではありませんでした。なぜなら、五社協定が目の前に立ちはだかっていたからです。それは、1953年に当時の日本の大手映画会社が、専属の監督や俳優に関して取り決めた約束事でした。具体的には、引き抜きや貸し出しを禁止する内容です。当然、生え抜きの私については、俳優をやめる以外に日活を離れるのは困難なことでした。もちろん、私より以前に日活を離れた先輩方もおられましたが、どなたも公然とはなし得ませんでした。ですから私も、煙を撒くようにいつの間にか消えてしまうような辞め方をしなければならなかったのです。

ところで、日活の後半に差し掛かる頃から、マンネリ化に悩まされていたことは以前にお話しした通りですが、信頼できる限られた仲間の俳優には悩みを聞いてもらっていました。中でも、先輩の南田洋子さんには何かと親身に相談に乗っていただいたのを覚えています。そんなある日、南田さんのご主人である長門裕之さんから、後にマネージャーになる方をご紹介していただきました。小橋さんという女性の方で、長門夫妻が日活を離れた後に専属のマネージャー契約をされていた方でした。小橋さんは敏腕で、松竹にパイプをもっているとのこと。実際、長門夫妻が日活を離れる手筈もすべて小橋さんに整えてもらったと聞いて、私も全面的に委ねることにしたのです。ちなみに、長門夫妻は小橋さんとの契約を解除して「人間プロダクション」の設立準備をしているタイミングでした。渡に船ではありませんが、絶妙なタイミングでマネージャーをご紹介していただいたわけです。

1962年に入ってから、小橋さんと具体的な打ち合わせを重ねておりました。そこで、密かに松竹と年間4本の映画出演の契約を取り付けたのです。ただし、これは明らかに五社協定違反になるため、一切の宣伝は行わないという前提条件がつきました。この契約は、これまで大変お世話になった日活に対して顔向けができないものですので、内密にしておかなければなりません。もちろん、松竹は承知の上です。そして、実際に日活を離れるまではとても慎重に行動しなければなりませんでした。全ての手続きを小橋さんに委ねていたので、彼女が日活と具体的にどのような話し合いをしてきたのかは聞いておりませんでしたが、決着するまでは私以上に、恐らく彼女自身が一番、緊張していたに違いありません。

結局、日活に対してはきちっとしたけじめとしてのご挨拶もできずに、静かに去りました。後々、大きなトラブルにならなかったのは、私自身が日活の看板俳優までの地位ではなかったのと、小髙がその後も日活に残ってくれたお陰だと思っています。この回顧録を執筆しているときに、その事に気付かされました。私はまだ22,3歳で世間もよく知らず、全てお膳立てされたところでしか動くことができませんでしたから、その後の状況など考えたこともなかったのです。それにしても、自分は随分と恵まれた環境の中で生きてきたのだと思います。そして、小髙の支えがどれほど大きかったのかを改めて思い知りました。

今、こうして昔を振り返っておりますが、日活の時代があったからこその役者人生だと強く思います。状況が許さなかったとはいえ、日活を去る際にきちんと感謝の気持ちを伝えられなかったことが悔やまれました。だからこそ、今だからできる形で日活にご恩返しをしたい気持ちです。80歳を過ぎて記憶もかなり頼りないところではありますが、できるだけ思い出しながら写真と共に記録に残したいと思います。

次回は、フリーになって初めて気付かされたことについてお話しします。

恋人同士の共演「君恋し」の舞台裏

1962年に公開された「君恋し」は、小髙が主演俳優での唯一の共演映画でした。この作品に出演が決まった時は正直なところ嬉しさもありましたが、今までに感じたことのない緊張感も覚えていました。というのも、小髙と共演できる嬉しさの反面、交際していることに気づかれないよう十分な配慮も必要だったからです。加えて、この頃はすでに日活を辞めることを決意していて、密かに次の段階に進むための準備もしていました。ですから、この事も周囲に悟られないようにしなければなりませんでした。

実際、小髙とは事実上、同棲生活を送っていましたが、お互いに超多忙なこともあって、じっくりと膝を突き合わせて話をする時間はほとんどありませんでした。撮影はそれぞれ夜中であったり早朝であったりということで、すれ違いの生活だったのです。ですから、台本の読み合わせなどできませんでしたし、そもそもしようという気さえも起きませんでした。それよりも今後、日活をどのような形で辞めて次の段階へ進んで行けばよいのか、足りない頭を働かせておりました。

ところで、日活は石原裕次郎さんの怪我による長期の離脱や、赤木圭一郎さんの急逝などがあり、それまでの勢いに水が刺されたような状況でした。他方、日活は映画事業以外にもホテルやゴルフ場などの経営も行っておりましたが、役者である私たちの耳にもあまり良い情報は入ってきていませんでした。折りしも、娯楽の中心が映画から急速にテレビへと変遷していく中でしたから、映画の衰退が手に取るように見えていたのです。正直なところ、日活の経営に暗雲が立ち込めていたことは、その頃から既に肌で感じていました。また、映画制作の勢いが少しずつ衰えていると感じていたのも、私だけではなかったと思います。実際、荒唐無稽な無国籍映画など、人々に飽きられつつありました。でも、まだまだ表面的には日活も大きな路線変更を行ってはいなかったため、私の中で将来に対する不安は増すばかりだったのです。

一方で、映画の衰退を感じつつも、演じることの面白さがわかってきた頃でもありました。映画だけでなく、ドラマにも積極的に挑戦したいという意欲が湧いてきていたのです。プライベートにおいては、小髙との結婚が現実的になってきており、結婚するにあたり二人が同じ組織にいるのは都合が悪いのではないかとも考えていました。そのような事情により、日活を離れることに迷いはなかったのです。しかし、五社協定もあることから、とにかく穏便にどこにもご迷惑をかけずに静かに辞めることが求められておりました。

話は「君恋し」に戻りますが、小髙も私もそれぞれに他の仕事も抱えておりましたが、この映画の撮影はもちろん同じ現場になりますので、一緒に行動する事ができて楽な面もありました。普段はすれ違いでしたから、現場までのドライブが楽しかったのを覚えています。でも道すがら、お互いの演技について話し合うことはありませんでした。小髙は演技のベテランであっても、上から目線で意見を言う事は決してありませんでした。彼はお互いの仕事には干渉はしないし、自由であるべきだという姿勢だったのです。ですから、その後の進路についても、私の意思を尊重し応援してくれました。

お互いにこの共演が、日活でおそらく最後になるだろうということがわかっておりましたので、良い緊張感がありました。小髙も私も示し合わせた訳ではありませんが、「後世に遺しても恥ずかしくない、必ず良い作品に仕上げなければならない」という強い使命感を持って撮影に臨んだのです。このように「君恋し」は二人にとっての子供のような、とても大切にしたい宝物のような作品になりました。日活には、この作品をいただいたことを本当に心から感謝しています。

次回は、どのような手続きを経て日活を離れたのか、五社協定に絡めてお話しします。

トニーの命日に寄せて

トニーこと赤木圭一郎さんとの共演は、数えるほどでした。その中でも1960年に公開された「邪魔者は消せ」は、トニーが主演する作品での共演でしたので代表作といえるものです。当時はトニーも私も多忙でしたので、時間が惜しくNGを出してはいけないという一心で演技に臨んでいたのを覚えています。トニーファンの方からは「海辺のラブシーンはどんな感じだったのか」と、よく訊ねられますが、実際には寒いし、NGは出せないしで、浸れるほどの余裕はなかったのです。そんな裏話をしてしまうと、夢を壊してしまうかもしれませんね。あるいは、お互いに恋愛感情があれば、もっと良いシーンになっていたかもしれません。けれども、二人に期待されるようなものは何もなかったのです。

ところで、トニーとは自宅が近かったことから、彼と同居していたトシ坊(杉山俊夫さん)も含めて何かと3人で集う機会がありました。通勤も私の迎えの車で2人をピックアップすることもしばしばありましたし、タイミングが合えば3人で帰ることもありました。私たちは同世代ですし、仲の良い友達だったのです。自分で言うのもなんですが、私の性格はさっぱりとしていて、どちらかといえば男の子っぽい雰囲気でした。ですから、彼らは私と居ても気が楽だったのかもしれませんね。

ところで、その頃はすでに小髙と交際をしておりましたが、奇遇にも小髙の父とトニーのお父様とはとても親しい間柄でした。お二方は大学時代の学友で、共に歯科医だったのです。そんなことから何かとトニーのお父様のお話を伺う機会もありましたし、小髙も私もトニーとは身内のような感覚で接しておりました。ご実家にも伺ったことがありましたが、その時は美しいお姉様とお妹様もいらっしゃって、とても和やかで素敵な雰囲気でした。トニーの優雅な振る舞いや、照れ屋さんの少しはにかんだ笑顔の輝きは、この素晴らしい家庭環境の中で育まれたものに違いありません。

一方、トニーには独自のスタイルがありました。面白いことに、わざとセーターを裏返しに着てみたりするのです。あるいは、セーターをマフラーみたいにしてみたり、寒いのにわざわざ靴の踵を踏んづけて、スリッパみたいに履いてみたり…。そういえば、赤い色のセーターをよく着ていたのを覚えています。当時は、今みたいに何でもありの時代ではありませんでしたから、彼の独特なスタイルすべてがとても斬新に見えました。おそらく、他の人が同じようなことをしても格好良くは見えなかったでしょうね。スターになる人は、やはり持っているものがどこか人とは違うのです。

もしも、トニーが生きていたらその後の映画界はどうなっていただろうか、と考えることがあります。もしかすると、日活はそこまでテレビに圧されることなく、勢いも衰えなかったのかもしれません。なにしろ日活には、裕ちゃんとトニーの二大スターが在籍しているのですから。そうなれば、私はもう少し長く日活にお世話になっていたのかもしれません。考えるほどに、ファンはもちろんのこと、俳優仲間も皆が注目し、今後が期待されていた人は当時、トニーを置いて他にはいなかったのではないでしょうか。

それにしても61年前の2月14日の事は、決して忘れることができません。トニーの乗ったゴーカートが、撮影所の扉に激突した時の衝撃音は、今でも生々しく耳に残っています。その時、わたしは撮影所の2階の控え室におりました。もの凄い音がしたので、2階のベランダから見下ろしたところ、事故現場に一斉に人が押し寄せているところでした。何が起こったのか、その時は全くわかりませんでした。しかし、すぐさま「トニーがぶつかった!」などという怒号が聞こえてきて初めて、トニーが事故に遭ったのだとわかったのです。

その一週間後、トニーはこの世を去りました。あまりにも突然で、にわかに信じることができませんでした。葬儀に一緒に参列した芦川いづみさんと私は、ショックと悲しみで涙が止まりませんでした。そんな悲嘆に暮れる中、トニーのお母様が気丈にも「人間は一度は死ぬのですから、そんなに悲しまないでくださいね」と、涙も見せずに優しく私たちを諭してくださったのがとても強く印象に残っています。愛息を亡くされて一番お辛いはずなのに…。私たちに前を向いてほしい、という強い願いが込められていたのだと思います。その日は、私たちの悲しみに濡れた暗い気持ちとは正反対に、青空が眩しいくらいの晴天でした。きっと、トニーも天上から、あの、はにかんだ笑顔で私たちを見つめ、励ましてくれていたのかもしれません。

トニー、たくさんの思い出をありがとう。あなたの笑顔は、61年も経った今でも、私たちの思い出の中に色鮮やかに生き続けているのです。

世田谷の自宅へ(1961〜1977)

世田谷の桜3丁目に、小髙の自宅がありました。1961年に、青山恭二さんのご実家が経営する不動産屋さんから購入した新築の建売住宅です。それ以前は世田谷代田のアパートに住んでいましたが、結婚の可能性も考えて一戸建てに住み替えをしたものです。私はといえば、初台のアパートをそのままにして、事実上、同棲生活を送っていました。本来は入籍を先にすべきところですが、当時はとても許されない状況でしたので、事前に小髙と両親を引き合わせて結婚を前提とすることで、了承を得ておりました。

さて、引っ越しをしたのは小髙が「アラブの嵐」(1961)の撮影が終了した後でしたので、お互いにとても多忙な時期でした。同棲といっても初台のアパートと行ったり来たりでしたし、2人でいる時間も限られていましたので、当初は今でいうシェアハウスのような感じでしょうか。小髙は役者仲間を自宅に招いて、よく麻雀をしていたようです。とにかく面倒見の良い人でしたから、撮影でご一緒した方々がよく出入りしていました。家政婦もおりましたので、小髙と私が不在にしていても勝手に来られて寛ぐ方もおられたくらいに、役者仲間が気楽に立ち寄れる憩いの場でした。旧大蔵撮影所からも近かったですし、とても便利な場所だったのです。

1963年に日活を離れた後、初台のアパートを完全に引き払い、本格的に小髙と同居生活に入りました。私たちの関係は仲間内では知られておりましたが、まだまだ公にはできませんでした。しかし、時が経てば薄々、周囲も気づき始めるものです。そんなある日、世田谷の自宅周辺に記者が張り込んでいたことがありました。私たちに気づかれないように、中を伺っていたのです。その時、小髙は敢えて記者たちに声を掛けて自宅に呼びました。そして、丁寧にお茶を出し、何も隠す事なく成り行きを説明して、穏やかにお引き取りいただきました。記者の方も仕事ですから、立場を理解した上での対応だったのです。それから間もなく記事になり、わたしたちの関係は公のものとなりました。もちろん、憶測で悪く書かれることはありませんでしたので、「小髙の作戦勝ちだったかな」といったところです。

次回は、赤木圭一郎さんについてお話しします。

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