川地民夫さんとの思い出

ター坊の愛称で親しまれていた、川地民夫さん。当時ター坊は、偶然にも小髙が住んでいた世田谷代田の同じアパートの並びに住んでいました。ちなみにそのアパートのオーナーは有名人が大好きで、四軒あるアパートの部屋の住人はすべて芸能人でした。一番手前が小髙、その隣は歌手の岸洋子さん夫妻、その並びにギタリストの高橋さん(下のお名前は失念しましたが、高橋是清氏のご親戚とか)、そしてター坊が住んでいました。当時、小髙と交際していることは秘密にしていたのですが、ター坊は薄々気がついていたかもしれません。何しろ、ター坊のデビュー作が、奇遇にも小髙と同じ「陽のあたる坂道」(1957)というご縁もあって、ふたりはとても仲良くしておりましたから。

ところで、ター坊との共演は数少なく、仕事でのお付き合いはあまりありませんでした。でも、話す機会はしばしばありました。というのも、ター坊は小髙を慕っておりましたので、自宅にお電話をいただくことが多かったからです。当時は携帯電話がありませんでしたから、連絡は専ら自宅の電話でした。夫が出られない時は、私が話し相手になりますので、何かと話す機会があったのです。ター坊はいつも「まゆみーー」と、必要以上に語尾を伸ばしました。他にそのように呼ばれる方も居なかったので、とても独特でした。

実はター坊が亡くなる直前の暮れに、久々に電話がかかってきたのです。「まゆみーー、元気ー?最近どうしてるのー?」って。「ちょっとさー、足が悪くて杖をついているんだー。」と言って、次に倒れたら復帰は絶望的なので、そのままにしてほしいと奥様に頼んでいるとか…そんな暗い事を言ってるから「大丈夫なの?元気でいないと!」って、励ましたのを覚えています。思えば、それがター坊との最後の会話になりました。

ター坊とのスチール写真を眺めていると、今でも「まゆみーー」と、呼ぶ声が聞こえてくるようです。2月10日は、ター坊の命日。たくさんの思い出を、本当にありがとう。天国で、小髙と再会していますように…。

次回は、役者仲間の憩いの場だった、世田谷の自宅についてお話しします。

日活時代を振り返って(後編)

1961年といえば、忙しさのピークと言ってもよい頃でした。日活も全盛期でしたから、仕事は次から次へとこなさなければならない状況にありました。日本も復興へと大きく前進した時期と重なりますから、映画も人々に夢と希望を与えるようなものが多かったのです。実際、娯楽中心の無国籍映画に出ていると、現実の世界とも違う何か不思議な感覚に囚われることがありました。映画を観ていると、その世界に居るような錯覚に陥る方も多いと思いますが、演じる側もその世界に入ってしまうものなのです。もっとも、仕事が終われば現実の世界ですから、切り替えをしなければなりません。でも、それは私にとって、難しいことではありませんでした。

正直なところ、ヒデ坊とのシリーズものの撮影が続く中で、徐々にマンネリを感じていました。毎回パターンは違うものの、荒唐無稽な内容が続くと、自分は役者として、何を目指していけば良いのか分からなくなっていたのです。そんな中、SPなどで、小沢昭一さんをはじめとする喜劇役者さんとの共演は、新鮮で楽しく、大いにリフレッシュしたのを覚えています。一方、「機動捜査班 暴力」(1961)という作品に代表されるような、社会的な問題作に出演した時は、役作りにより一層、力が入りました。この作品で共演した父親役の菅井一郎さんからも、大変多くのことを学ばせていただきました。

ところで、ヒデ坊との共演作品の中でも「峠を渡る若い風」(1961)は、鈴木清順監督の作品ですが、それまでの荒唐無稽な映画とは一線を画したものでした。清順監督も作品に熱が入っていて、役作りに対する助言は、心に突き刺さるものばかりでした。殊に、基本に立ち返るべき助言は、それからの役作りに大いに役立ったのを覚えています。更には、この映画への出演は、その後の役者人生をどう歩むべきかについて、真摯に考えるきっかけにもなりました。

急速に時代が変化していく中で、自分自身はこのままでもよいのだろうかと、忙しいながらも常に頭を悩ませていました。女性としての幸せを掴みたい一方で、役者としての人生も全うしてみたいという思いが、沸々と湧いてきたのです。「もっと演技がしてみたい」という意欲が高まり、映画からドラマへと興味が移り始めたのも、ちょうどこの頃です。同時に、小髙雄二との結婚についても、いよいよ現実味を帯びてきていました。振り返ってみても、日活時代の後半は、人生の大きな岐路に立たされていたのです。

次回は、川地民夫さんについてお話しします。

日活時代を振り返って(前編)

自宅に保管している64冊の台本を眺めながら、当時のことを思い出していました。デビューは1957年の「月下の若武者」ですが、訳も分からず言われた通りに動いて、たった一言の台詞を言うのにも精一杯でした。それから、徐々にモデルの仕事で多忙になり、演技の勉強をする時間も思うように与えられない中、見様見真似でなんとかやりこなしていたのを思い出しました。それでも、清水マリ子としてデビューしてからは、まだまだ映画の出演も数えるほどでした。

ところで、石原裕次郎さんとご一緒した1958年の「赤い波止場」への出演が、役者としての覚悟を持ち、演技とは何かを考えさせられるきっかけになった事は、すでにお話した通りです。この映画をきっかけに、私自身も役者としての自覚が芽生えたのと同時に、日活も積極的に登用し始めた事を覚えています。芸名が「清水まゆみ」に改められたのも、ちょうどその頃です。それを証拠に、1959年から1962年までの間に出演した台本の数は、47冊もありました。

その47本の映画の内、15本は和田浩治さんとの共演になります。手元に残っているスチール写真のほとんどが、ヒデ坊と共演したものですから、いかに共演数が多かったのかを物語っています。おそらく日活では、ヒデ坊を第二の石原裕次郎として育てたいということで、シリーズものを作って売り出したのではないでしょうか。今思えば、ちょうどそのタイミングで、私も積極的に登用され始めていましたので、都合よくコンビとして成立したのではないかと思っています。

当時の娯楽の中心は間違いなく映画でしたから、まずは面白さが要求されていました。更に、人々がワクワクするようなものであること、キラキラしていて羨むようなものであることが求められていました。ですから、日活の無国籍映画がもてはやされたのでしょうね。御多分に洩れず、ヒデ坊とのシリーズものは、荒唐無稽で漫画的な内容のものが多かったように思います。

睡眠時間も限られ、忙しく仕事をしている日常を送る中で「自分自身は何者なのか?」と、思い始めたのは1961年頃でしたでしょうか。自分は果たしてこのままでよいのだろうかと、疑問を抱き始めるようになったのです。

(後編に続きます)

保管している映画の台本について

自宅に保管している台本の数を数えたところ、日活については、1957年のデビュー作「月下の若武者」から、1963年に退職するまでに、SPも含めて計64本の映画に出演していたことがわかりました。12/27投稿記事では70本近くとしていましたが、準備稿なども含めておりましたので、正式には64本でした(その内、和田浩治さんとの共演は15本です)。当時の映画は、二本立てになっていて、メインの映画にSPと呼ばれる少し短めの映画がセットされていました。映画の宣伝はメインの映画が中心ですから、SPについての情報はあまり公表されてないかもしれません。でも、侮れないくらいに面白い作品がたくさんありました。

ところで、演技初心者からのスタートでしたので、デビューから1、2年はあまり出演作品が多くはありませんでした。ですから、1959年〜1962年までに、怒涛の如く次から次へと映画に出演していたのがわかりました。今だから言えますが、仕事をこなすのに精一杯だったので、全ての映画を最初から最後までゆっくりと鑑賞することは、全くありませんでした。今の時代なら、簡単に自宅で映画も観られますが、当時はそこまで簡単ではありませんでしたしね。それとは別に、正直なところ自分の出演していた映画は、何となく気恥ずかしくて見ていられなかったので、積極的に観たいということもなかったのです。それに対して、小髙は研究熱心でしたから、自分の出演した作品については、細かいところまで常にチェックしていたようでした。

話は脱線しましたが、1963年に日活を退職してからはフリーとなりました。実は、松竹とは年間4本の契約を密かにしておりました。密かに、というのは5社協定があるためです。この辺りのことは長くなるのでまた別の機会にお話しします。それで、改めて台本を確認したところ、最後の出演となる映画まで、結局14本の作品に出演しておりました。日活と、フリーになってから併せて、計78本の映画に出演していたことがわかりました。思ってたより多かったな、という感想です。というのは、フリーになってからはドラマが中心でしたから、日活時代のように次から次へと映画の出演をこなしていたわけではなかったからです。因みにドラマの台本は、千葉から北海道に引っ越す際に、粗方処分してしまいました。その時は、活動再開など、殆ど考えておりませんでしたので、今思えば勿体ないことをしてしまったかもしれません。

こうして改めて保管しているすべての台本を眺めていると、走馬灯のように昔の思い出が過ぎります。やっぱり私にとっては、日活時代が全てと言って良い程の財産です。今、北海道に戻り、半生を振り返る機会を持てたことは本当に良かったですし、Instagramを通じてファンの方に改めてお会いできるのは、何よりも嬉しいことです。だって、ファンあっての役者ですものね。元気なうちに、お世話になった日活や関係各所、そして何よりファンの皆様にこの回顧録を通じて、ご恩返ししなければと思っております。

次回は、大鵬さんについてお話しします。

葉山良二さんとの思い出

とても食通だった、葉山良二さん。良ちゃんとの思い出には、食に関するものがたくさんあります。いろいろなレストランで食事をご一緒しましたが、中でも印象に残っているのは、「しゃぶしゃぶ」です。当時、溜池に高級なしゃぶしゃぶレストランができたということで、小髙と招待された事がありました。田舎から出てきた私にとって「しゃぶしゃぶ」は、すごくハイカラでおしゃれな料理でした。とても美味しくて、感激したのを覚えています。他にも、良ちゃんは銀座や新橋の高級なお鮨屋さんの常連でしたので、ずいぶんと贅沢な思いをさせてくれました。時には、渋谷にあるご自宅に招かれる事もありました。美味しいお肉をたくさん用意してくれて、日活の仲間で焼肉パーティーを楽しんだ事を、今でも懐かしく思い出します。このように良ちゃんは、サービス精神が旺盛で、優しくて面倒見のよい人だったのです。

日活を離れた後ですが、小髙と私は世田谷の家を新たに買って、一緒に住んでおりました。そこは、大蔵映画撮影所から通りを挟んですぐのところでしたから、撮影の合間に、よく良ちゃんが訪ねてきてくれました。当時も忙しかったですから、昼寝をするのにとても都合の良い場所だったようです。私たちが撮影で不在にしていても、平気で来て「何かスープを作ってほしい」と留守の者に頼んで、自分の家のように過ごしていたとか。良ちゃんと小髙とは気の置けない間柄でしたので、私抜きで2人でお酒を飲みに行くこともありました。

今日は1月3日、良ちゃんの命日。あまりにも早い旅立ちで、小髙も私もとても残念でした。新年明けてすぐのお葬式は、とても寂しく感じたものです。今は夫も亡くなりましたが、今日一日は日活時代を思い返して、故人を偲びたいと思います。

「無言の乱斗」から始まった和田浩治さんとの共演

和田浩治さんとの共演は、1959年の「無言の乱斗」から始まって、1962年まで続きました。改めて保管している台本を数えたところ、計20本にもなりました。私が日活を離れたのが1963年でしたが、それまでにSPも含めて70本ほどの作品に出演しておりましたので、ヒデ坊とは3割近い作品を共演したことになります。

ところで、和田浩治さんの本名は和田愷夫(ひでお)さんなので、仲間内ではヒデ坊と呼んでいました。ヒデ坊は、石原裕次郎さんの風貌に何処となく似ているということで、スカウトされたそうです。裕ちゃんといえば、推しも推されもせぬ看板俳優でしたから、日活としては第二の裕次郎を育てたかったのかもしれません。シリーズものを作りたいという会社の方針によって、ヒデ坊のデビュー作「無言の乱斗」から相手役に選ばれました。

ところで、「無言の乱斗」での初めての撮影シーンは、確かラブシーンのような2人だけの設定だったと記憶しています。演技経験に乏しいヒデ坊には酷だなと思ったと同時に、私がリードしなければならないという使命感に駆られたのを覚えています。ヒデ坊は実の弟と同じ4歳年下でしたから、出会った時から弟のような存在でした。私自身も役者経験がゼロからの出発でしたので、デビュー作に挑むヒデ坊の心境は痛いほどわかっていました。それで、姉のような包容力をもって、演技に臨んだのです。

ヒデ坊との共演作の全てを通じて、役者の先輩としてのプライドを持って、演技に取り組みました。この経験が、役者としての幅を拡げるきっかけのひとつになったのではないかと思います。そして、最も印象に残る共演作となったのが、鈴木清順監督がメガホンをとった「峠を渡る若い風」(1961)です。この作品との出合いによって、演じる事の意味を改めて考えさせられ、意欲が大いに掻き立てられたのを覚えています。更なる高みを目指したいという、役者としての野心を抱くきっかけとなったのです。それは同時に、日活を離れる事を考える契機にもなりました。そしてとうとう、「俺に賭けた奴ら」(1962)がヒデ坊との最後の共演になり、その後まもなく退職するに至りました。今、改めて振り返ってみると、このタイミングで日活を離れた事は、シリーズものを共演していたヒデ坊には気の毒な事だったかもしれません。とても申し訳なかったけれど、当時は必死に前だけを見ていました。

次回も日活のエピソードが続きます。

多忙を極めた日活時代

週に2本のペースで映画が制作されていた時代でしたから、言葉では言い表せないほどの忙しさでした。主役級の俳優はもちろん、脇役の俳優陣もひっきりなしに仕事をこなしていた頃です。日活全体が、活気に満ち溢れていました。次から次へと台本が渡され、セリフを覚えなくてはなりません。演技経験がゼロからのスタートでしたので、とにかく周りに迷惑をかけられない思いで必死でした。絶対にNGは出したくなかったので、セリフは完璧に頭に叩き込んでいったものです。それに加えて、モデルの仕事もこなしていましたから、睡眠時間は1日平均だいたい2時間〜3時間くらいでしたでしょうか。日活の撮影所には宿泊スペースもありましたが、あまりよく眠れないので、できるだけ自宅に帰るようにしていました。

忙しさのあまり、撮影の合間に睡魔に襲われることも度々ありました。でもこんなことは、当時の日活では日常茶飯事です。俳優だけでなく、スタッフも睡眠不足でした。ある時、照明さんがライトの灯りでポカポカして眠気に誘われたのか、舞台裏から落っこちてしまった事がありました。最初は皆んな驚きましたが、当の本人が照れ笑いをしながら起き上がった途端、爆笑の渦に…。でも、こんな事は一度や二度の話ではなかったのです。当時のメンバーは、日活に携わっているだけでも嬉しかった時代でしたから、こんなハプニングにも寛容な雰囲気だったものです。監督、スタッフ、俳優すべての人たちが一体となって映画作りをしていました。

それから、何の映画だったか覚えていませんが、芦川いづみさんと共演した時のことです。2人でタクシーに乗っているシーンの撮影でした。車の中は撮影のライトでとても暖かくて心地よく、それはそれは眠気を誘うほどでした。いづみちゃんは私以上に引っ張りだこでしたから、疲労も溜まりに溜まっていたと思います。2人でタクシーのシートに座っていたら、眠たくなってお互いにもたれかかってしまうのです。そこで、眠りに落ちそうになったら、2人で太ももの肉を摘み合って、眠らないようにしていました。苦笑いしながら…。いづみちゃんは先輩ですが、盟友でもあります。お互いに日活を離れてからも交流を続けていて、今でも仲良くしていただいています。いづみちゃんとのエピソードはまた、別の機会にお話しします。

そうそう、この時期はいくら食べても太ることはありませんでした。お米が大好きで、お茶碗に3杯も食べていました。若かったこともありますが、それくらい食べないとやっていけないほどに忙しかったのです。

次回は、和田浩治さんとの共演についてお話しします。

出世作となった「赤い波止場」(1958)

演技をしたこともない少女が、突如として銀幕の世界に入ったわけですから、最初から役者の覚悟など持てるはずもありませんでした。北海道の田舎にいる母は、もって半年だろうと思っていたそうです。元来、口下手で引っ込み思案な性格でしたので、私自身も不安でいっぱいでした。しかし、地元では日活からデビューしたという話題で持ち切りでしたし、新聞にもずいぶん取り上げられていましたから、最低でも3年は頑張ると決めていました。結果を出せずに帰ったとしたら、恥ずかしいですし、家族にも迷惑をかけると思ったからです。

ところで、当時の日活は飛ぶ鳥を落とす勢いでしたが、その中心にいたのは他ならぬ石原裕次郎さんです。その日活の看板スターと本格的に共演した映画のひとつに、「赤い波止場」がありました。デビューした翌年の駆け出しの頃で、まだ清水マリ子という名前で出ていました。裕次郎さんをはじめ、日活の錚々たるメンバーがそろって出演していたことから、神戸市のロケ現場には街中の人々が大勢押しかけていました。実際、撮影現場は混乱することしきりで、時には警察の押さえも効かず、撮影が何度も中断したのを覚えています。

それまで「月下の若武者」の他、いくつかの作品に出演してきましたが、ただ与えられる衣装を身にまとい、一生懸命に覚えてきたセリフを言うことだけで精一杯でした。映画をどのように作り上げていくのか、その中で自分がどのように演じていけばよいのかなど、作品全体を客観的に捉えるまでの余裕などなかったものです。でも、この「赤い波止場」への出演は、演じることの意味や価値を改めて考えるきっかけになりました。それは撮影現場で、石原裕次郎さんからほとばしる情熱を直に感じたときに、役者としての覚悟とはどういうものなのかを、まざまざと思い知らされたからです。

裕次郎さんは、ただならぬオーラを纏っていました。常に真剣勝負で、緊張感があり、もの凄く迫力のある演技をしていました。また、現場に一緒にいると怖いくらいの気迫があり、周囲を圧倒しているのがわかりました。実際、初めは怖い方なのかと思ったくらいです。本人は、日活を背負うくらいの覚悟で、常に演技に臨まれていたのだと思います。その一方で、役者仲間から慕われて、スタッフからの信頼も厚い方でした。そんな大スターとの本格的な共演によって、大いに刺激を受けたことで、役者としての自覚も芽生え、自分自身が成長できたのだと思います。ですからこの作品は、私にとって忘れられないものになりました。また、この映画の出演をきっかけに、多くの作品に出演することになりました。「赤い波止場」は、まさに出世作だったのです。

ちなみに当時、裕次郎さんは私のことを「チビマリ」と呼んでいました。先輩に白木マリさんがいらっしゃったからです。この作品の後、まもなく「まゆみ」に改名されました。

次回も、日活時代のエピソードについてお話しします。

修学旅行気分だった地方ロケ

映画によっては、撮影所だけでなく地方ロケに出かけることも少なくありませんでした。日帰りのこともあれば、泊りのこともありました。当時、日活には移動のためのバスが一台用意されていました。伊豆半島あたりですと、バスでだいたい4、5時間です。それより遠いところへは、電車で移動しました。ちなみに主役級の俳優は大抵、自家用車で目的地へ向かいました。機材や小道具、衣装などは専用のトラックで移動していました。

デビュー当初は、バスで移動する地方ロケがとても楽しみでした。当時の日活は若手の俳優が多かったので、移動中のバスの中はまるで修学旅行のような賑やかさでした。好きなおやつを持参して食べながら、時には当時の流行歌をみんなで合唱し、目的地に着くまで大いに盛り上がっていました。旅館に着いてからも、自然とみんながホールに集まり、当時はやりのツイストを踊って盛り上がり、バスの中の続きを楽しんでいたものです。17歳で北海道の田舎から上京しましたので、学生気分が抜けきらなかったこともありますが、地方ロケへの移動はワクワクしました。今でも懐かしく思い出します。

ところで当時、日活に役者として入社する方法は、大きく分けて3つありました。まずは日活の募集による採用、次に映画のオーディションに合格することによる採用、そして劇団などからの引き抜きによる移籍です。ちなみに夫の小髙は引き抜きによる移籍ですので、実力が買われての採用です。これに対して、私の場合は役者の経験がゼロからの採用でした。そこでお世話になったのが、劇団青年座です。デビュー当初は、映画に出るまでもなく、モデルの仕事も多くて忙しい毎日でしたので、期間はとても短いものでしたが、山岡久乃さんや初井言榮さんら大先輩に目をかけていただきました。青年座の役者は俳優座出身の方が多かったですし、日活映画にも数多く出演されていました。

話しは元に戻りますが、私が入社したころは、日活の募集でいえば4期と5期の間くらいです。日活の仲間は本当に仲が良くて、大部屋の出身だろうとスカウトだろうと分け隔てなくお付き合いしたものです。ですから、ロケバスの中でも大いに盛り上がりました。日活は、若い役者やスタッフのコミュニケーションがうまくとれていたからこそ、良い作品がたくさん生まれたのだと思います。日活の隆盛期に入社できたことは、役者としてとても幸運なことでした。

次回の投稿では、出世作と石原裕次郎さんについてお話しします。

密かに交際する方法

小髙と交際することになったものの、自由に会うことは難しい時代でした。銀幕の世界が、人々に夢と希望を与えるものである以上、俳優が私生活をさらけ出すことは好ましいこととされていなかったからです。日活においても、恋愛沙汰は極力控えなければならない風潮にありました。まして、所属する俳優同士が交際するとなれば、一大スキャンダルになりかねません。ですから、私たちは秘密裏に会わなければならなかったのです。

当時、小髙は車を持っていましたから、一緒に出掛ける時はもっぱら車で移動していました。彼の運転する車の助手席に乗っていても、目的地まで常にコートを被り、荷物のようになっていました。小柄な体だったからまだよかったものの、窮屈で仕方ありませんでした。大っぴらに会うことはできませんでしたから、デートの場所はもっぱら世田谷にある彼のアパートです。ちなみに初台の自宅からひとりで移動するときは、グリーンタクシーを使っていました。

二人で会う以外には、ごく一部の信頼関係の厚い日活の仲間同士で集まる方法もありました。グループ交際みたいに気が楽でしたし、怪しまれることもありません。当時、俳優仲間はお互いに協力しあってお付き合いをしていたものです。ところで、撮影所で一緒に仕事をしている時は連絡の取りようもありますが、ロケで離ればなれになることがある場合は、ひと工夫が必要でした。

例えば、宿泊先の旅館から電話を掛けようものなら、交換台を通じて話も筒抜けになりかねません。ですから、話口調は、あくまでもビジネスライクに用件だけです。でも、お互いに仕事で疲れているのに、若い二人が甘い言葉も交わせないのは辛いところ。そこで、暗号を使うことにしていました。お恥ずかしいけれど、お互いに愛情を持っていることを確かめるときは、「ラソ」と言いました。ちなみに、どうして「ラソ」なのかは謎です。「じゃあ、明日はそういうことで。ラソ。」などと言ったものです。こんな苦労をするなんて今では考えられないことですが、連絡を取り合うのが大変な時代でしたから、余計に恋も盛り上がるのかもしれませんね。

そんな窮屈な恋愛期間を経て、晴れて結婚したのはそれから約10年も後のことです。当時、俳優同士が結婚することは、ハードルの高いことでした。裕ちゃん夫妻も、しがらみが多くてなかなかゴールインできませんでしたが、私たちも同じような悩みを抱えていたのです。また、密かに交際していても、ある程度の時間が経てば、自然と周りが気付き始めます。ある時、記者たちが世田谷の自宅近くで待機していました。その時、小髙はどのような対応をしたのかは、また別の機会にお話しします。

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