夫、小髙雄二との出会い

夫である小髙雄二とは、日活で出会いました。彼はもともと俳優座5期生の劇団員でしたが、日活からの熱烈な誘いにより、1957年に移籍してきました。当時、日活撮影所の山崎所長が、1958年に公開された「陽の当たる坂道」で、小髙をどうしても登用したかったというのがその理由です。この映画の主演は石原裕次郎さんですが、裕ちゃんのお兄さん役として出演していました。実際、年齢も裕ちゃんの一つ上でしたが、私生活でも兄弟のように仲良くしていたのです。裕ちゃんとまこちゃん(北原三枝さん)と私たち夫婦は、仕事でもプライベートでも長年、交流をしてきましたが、その話はまた別の機会にすることにします。

ところで、初めて小髙と会ったのは、「知と愛の出発」(1958)で共演した時です。私はアルバイトの少女役で、セリフも一言、二言でした。ロケ現場はヨットハーバーで、彼と私はデッキにいました。駆け出しの頃でしたから、緊張が先だってしまって、余裕なんかありません。でもなぜだか、彼の指の美しさだけが脳裏に焼き付いていました。初めはただそれだけのことで、初心な私に恋愛感情が芽生えることはありませんでした。

一方、小髙はそれよりも少し前に、撮影所の演技課の廊下にある大きな鏡の前で、たまたま私を見かけることがあったそうです。野球帽をかぶった少年のような姿をした少女が、鏡の前で一生懸命にポーズをとっていたのが、とても愛らしく印象的だったとか。その時から、どうやら私の存在を意識して観察していたらしいのです。そんなある日、演技課で小髙の世話役だった森さんから連絡がありました。小髙が体調を崩し入院したので、どうしても見舞いに行ってほしいというのです。小髙は俳優座出身の大先輩ですから、断ることはできません。仕方なしに、恐る恐るお見舞いに行ったのを覚えています。

後から分かったことですが、彼は病弱であることを秘して仕事をしており、そのことを知っていたのは当時、森さんだけだったそうです。もしかしたら、彼は森さんだけには胸の内を明かしていたのかもしれません。きっかけがあれば、私との距離を縮めたいという思いがあったようなのです。 お見舞いをしてからというもの、小髙から積極的に連絡をもらう機会が増えて、徐々にお互いの距離が縮まりました。そして、ついに交際することになったのです。でも当時、スキャンダルはご法度でしたから、二人は密やかにデートをしなければなりません。携帯電話もない時代に、どのようにお付き合いしていたのでしょうか。この話は、次回に続きます。

モデルの仕事

オーディションに合格して日活に入社しましたが、演技の基礎もないゼロからのスタートでしたので、最初からそう易々と映画に出られるわけではありませんでした。「月下の若武者」ではセリフはたった一つだけでしたし、撮影に丸一日かかったものの、なんとか役割を果たせたようなものです。そしてもう一つ、私には演技ができるかどうかという以前に、北海道弁の訛りの問題がありました。そこで、標準語に慣れるまでの間、演技の勉強をしながらモデルの仕事をいただいておりました。

ところで、戦後は女性も進学する人が増えて、ほとんどが結婚するまでとはいえ、社会に進出する機会が増えつつある時代でした。その所為か、通勤や通学などでどのようなファッションが好ましいかなど、若い女性を中心としてファッションに対する意識が高まっていました。そんな中、女性誌が次々と刊行されていたのを覚えています。そのような時代の流れの中で、モデルとしての仕事の需要も多く、おかげさまで雑誌社などからたくさんのオファーをいただいておりました。当時は、電車で布田の撮影所まで通勤していましたが、撮影所の仕事が終われば、待機していた雑誌社の車で、撮影スタジオや撮影ロケの現場に向かうという毎日でした。洋服のモデルや、雑誌の表紙、あるいは取材を受けることもたくさんあって、目が眩むほど忙しくしていました。

また、モデルの仕事を通じて、日本の名だたるアーティストとの出会いがありました。今、振り返ってみても、とても贅沢ですし幸運なことです。例えば、写真家の第一人者であった秋山正太郎先生には、たくさんのポートレートを撮影していただきました。六本木にあった先生のスタジオへは、何度も通ったものです。それから、当時大人気だった中原淳一先生とも、多くの仕事をご一緒させていただきました。先生のアトリエでは、若い女性に人気のあった雑誌「ソレイユ」や「ひまわり」の撮影が行われておりましたので、アトリエに伺う機会も頻繁にありました。

このようにモデルの仕事を通じて、当時の最先端のファッションを知ることは、とても有意義でしたし、楽しいものでした。また、自分の身にまとうファッションが人々に影響を与えているのだと思うと、やりがいも十分に感じられました。その後、徐々に映画への出演機会が増えてきましたので、役者の仕事が中心になりましたが、できるだけモデルの仕事はしていきたいと考えていました。81歳になって活動を再開した現在でも、その気持ちは変わらないところです。

次回は、小髙雄二との出会いについてお話しします。

「青春の冒険」(1957)でのこと

この作品は、小林旭さんが主演の映画で、大人の世界にあこがれる高校生を描いたものです。デビューから間もない頃の出演で、その時の芸名は「清水マリ子」でした。ちなみに本名は鞠子ですが、鞠の字が複雑だったので、単純にカナに替えられたものです。のちに「まゆみ」になりましたが、そのお話はまた別の機会にすることにします。

さて、この作品では当時、同じ年ごろの役柄でしたから、等身大で演じることができました。デビュー作の「月下の若武者」とは違って、セリフも増えましたし、撮影所のみならず初めてのロケも経験して、気持ちも上がりました。ところが、ここではじめて役者としての壁にぶち当たるのです。実際は、壁だなんて大げさなものではなくて、今振り返れば微笑ましくも、お恥ずかしい話です。

それは、主役の小林旭さんに平手打ちをするシーンでのことでした。台本では、旭さんの頬を思い切り叩かなくてはなりません。でも、どうしても叩くことができないのです。だって、怖いでしょう?!デビュー前に、スクリーンで観ていた日活のスターが相手です。それに、それまで一度だって、人の頬を叩くなんてことはしたことが無かったのですから。何回も何回も挑戦して、それでもできなくて、とうとう泣けてきたのです。旭さんは「思いっきりやっていい!」と言ってくれたのですが、当時の私にはなかなか難しいことでした。

それでも役者として、ゼロからスタートしたばかりの頃でしたから、無理もなかったのかもしれません。結局、役に入りきれないから、平手打ちもできなかったのです。でもこの経験を通じて、役者としての覚悟が必要だということを、改めて思い知らされました。だからといって、覚悟がどれほどのものかを思い知ることになるのは、実はもう少し先のお話なのですが…。おかげさまで撮影は、周りのスタッフの温かな支えもあって、なんとか終了しました。旭さんは、ご承知のとおり背も高くて迫力のある役者さんです。それに、性格はとてもさっぱりしていて、撮影現場はいつも良い雰囲気でした。

そんなこんなで、周囲に支えられながら役者としての人生がスタートしました。しかし、まだまだ前途多難。この続きはまたの機会にお話しします。

デビュー作「月下の若武者」(1957年)

津川雅彦さんが主演する「月下の若武者」で、主役の相手役を募集するオーディションに合格したのが、デビューのきっかけでした。津川さんとは同じ年の早生まれ同士でしたし、主役はお殿様でしたから、てっきり、お姫様の役をいただけるものと思っていました。しかし、ふたを開けてみれば「遊女」の役だったのです。初めての映画出演で、お姫様の衣装に身をまとっている自分を想像していたものですから、ものすごくがっかりしたのを覚えています。

想定外だった遊女の役ですが、セリフはたったひとつ「不束者にございます」というもの…たったこれだけのために日活はオーディションを行ったのかと、少々戸惑いました。しかし、実際に出演してわかったのは、たったセリフひとつの撮影でも簡単ではなかったということです。映画のスクリーンでは、役者たちが演じている様が映し出されますが、観る側はその完成された映像が制作されるまでの過程を知ることはありません。布田の撮影所で行われた、たったワンシーンの撮影でしたが、準備から撮影までに丸一日を要しました。この映画は、映画界で初めて採用された「総天然色の日活スコープ」でしたので、スタッフの準備も実に入念なものでした。ライト、カメラ、小道具などの準備がすべて整うまで、現場はバタバタしていました。

田舎から出てきた少女は、なすがままにメイクをされて衣装を身にまとい、かつらをつけられて、所定の場所で長い時間、待機させられていました。初めてで訳が分からない中でしたが、見るものすべてが興味深いものでした。いざ、演じる段になってからも、ライトやカメラの調整が細かくされていたので、何テイク行われたのか、はっきりと覚えていません。緊張の中、ようやく撮影が終了して、重たい衣装やかつらを外した時の解放感は、今でもよく覚えています。映画の撮影は、たったワンシーンでも簡単ではないことを思い知らされました。

ところで、相手役だった津川さんとの共演は、この作品だけでした。津川さんも翌年には松竹に移籍され、その後フリーになられましたが、残念ながら接点はほとんどありませんでした。でも、この作品のお陰で役者の世界にはいることができましたから、津川さんとの出会いは私にとって特別なものです。一方、お兄様の長門裕之さんとは、日活の時代、そしてフリーになってからも交流がありました。長門さん夫妻との思い出は、また別の機会にお話ししたいと思います。

布田の日活撮影所

京王線の布田駅から徒歩約20分のところに、日活の撮影所がありました。デビュー当時は、最寄りの初台駅から京王線に乗って、通勤していました。電車を降りてからは、ずっとあぜ道です。あの頃は撮影所まで畑や田んぼが続いていて、道路も舗装はされておらず、悪路を歩いて通ったものです。撮影所は白亜の殿堂というには大げさかもしれませんが、当時としてはかまぼこ型のアーチが美しい、真っ白の斬新な建物でした。私がデビューした少し前に建設されたばかりで、当時としては日本最大級の規模を誇る撮影所でした。

撮影所に着いたらまず、演技課というところに行って、その日の仕事の確認をしなければなりません。当時は、監督ごとにチームに分けられていました。例えば、牛原組とか、西河組など、監督に組をつけて呼んでいたのです。撮影が行われるステージも第1~第10ステージまでありましたが、俳優やスタッフはその日、自分の組がどこのステージで仕事をするのかを、演技課の掲示板を見て確認していました。週に2本のペースで映画が作られていた時代ですから、それはそれは撮影所も賑わっていたものです。

ところで、当時の日活は新人発掘に力を入れていたこともあり、俳優も若手が中心でした。スタッフにも若い人が多く、撮影所は全体的に明るくて活気の溢れる雰囲気でした。撮影所で働くすべての人が、よりよい作品作りに前向きに取り組んでいました。その上、俳優もスタッフもみんな仲間という感じで、とても楽しく仕事をしていたのを覚えています。そんな明るく楽しい雰囲気の中でしたので、良い作品もたくさん生まれたのではないでしょうか。

そういえば、撮影所でのエピソードを一つ思い出しました。デビュー当時、京王線で通勤していた頃、布田駅から撮影所までのあぜ道にカエルがうじゃうじゃいたことがありました。避けながら歩かなければならないほどのカエルなので、都会の人には厄介だったかもしれませんが、田舎育ちの元気な少女にとってはヘッチャラです。ある日、歩きながらカエルを何匹か拾って、ポケットに忍ばせて撮影所に行ったことがありました。たまたま早朝で、演技課のスタッフはまだ誰も出勤していません。私はそぉーっと、デスクの引き出しにカエルを忍ばせて、物陰に隠れていました。スタッフたちのカエルに驚く様を見たくて…当時、まだまだ子供で完全に学生気分でした。私の仕業だと気づかれなかったはと思うのですが、この場を借りてお詫びします。それにしても、撮影所はこんな悪戯にも寛容な雰囲気だったのです。

次回は、初めて映画に出演した時のエピソードをお話しします。

日活の大入袋

当時、日活では映画の興行成績が良かった場合に、大入袋が配られました。それは、作品ごとに配られるものですが、その制作に関わっても関わらなくても、日活の俳優のみならずスタッフ全員に配られていました。戦後の日活は大盛況でしたので、年に何回も配られたものです。大抵は、大入袋に100円硬貨が一枚です。日活に入ったのが1957年でしたから、ちょうど日本で100円硬貨が発行された年だったと記憶しています。当時、映画の入場券が150円程度でしたから、100円の価値は今のだいたい10倍くらいでしょうか。

北海道の田舎からポッと出てきた、世間もよくわからない少女が銀幕デビューを果たしたわけです。あの頃は、目が眩むほどに忙しい毎日を送っていました。そんな中、自分が携わった作品で大入袋を手にした時の感動は、忘れられないものです。そして、その大入袋は役者としての自信を、大いに与えてくれるものでした。

ところで、たった一度だけ大入袋に大金が入っていたことがありました。実は記憶が曖昧で、残念ながら具体的な金額を覚えてはいないのですが、確か5が付いていたような気がします。ですから、500円なのか、何千500円なのか、あるいは5,000円なのか。その当時、制作スタッフの人たちが、上着と下着、それに靴まで揃うと大喜びしていたのを覚えています。ちなみに当時の新卒の初任給が1万円程度でしたから、5,000円ということはないかしら…いずれにしても日活の全社員に配られたとすれば、相当な金額になるはずです。それは、凄まじくヒットした作品に対するものだったに違いありません。そして、それは間違いなく石原裕次郎さんが主演した映画の大入袋でしょう。なぜなら、裕ちゃんが出演する作品は、どれもこれも大当たりだったのですから。

裕ちゃんは大先輩ですが、私にとってはお兄ちゃんみたいな存在でした。俳優としてはもちろん、人間的にも大変魅力のある方でした。優しくて、強くて、カッコ良い。実際、私に兄はおりませんが、こんな三拍子の揃ったお兄ちゃんがいたらいいのにと、ずっと思い描いていたような方でした。石原裕次郎さんの魅力については、また別の機会にお話しします。

戦後の映画産業

戦後の娯楽といえば、映画でした。それを証拠に、映画館は連日、大入りの満員どころか立ち見の人でぎゅうぎゅう詰めの状態でした。今も昔も娯楽の街といえば新宿ですが、戦後には今よりもたくさんの映画館がありました。劇場の中だけでなく前にも、常に人が溢れかえっていたものです。戦後の復興の中で、銀幕の世界が人々に夢や希望を与えていたのでしょう。そんな活気あふれる戦後の映画産業で、中心的な役割を担っていたのが、他ならぬ日活です。

その日活の花形スターといえば、筆頭は間違いなく石原裕次郎さんです。裕ちゃんは国民的な大スターでしたから、女性だけでなく、男性も憧れる存在でした。ある時、人で溢れる劇場の前を通ったところ、裕ちゃんの映画を見終わったばかりの人が、本人になりきってトレンチコートを着て、そっくりの歩き方をして劇場を後にしていました。それが、一人や二人ではないのです。その光景を見て、うれしくて、思わず微笑んでしまったのを覚えています。それは、裕ちゃんと同じ映画界にいて、人々に夢を与える仕事に携われることを、誇りに思える瞬間でもありました。

ところが、戦後の映画産業が活況だった時代は長くは続きませんでした。テレビの普及が進むにつれて、娯楽の中心が映画からテレビへと急速に変化していったからです。それは、まるで日本の復興のスピードについて行っているかのようでした。実際、私自身もテレビドラマへの出演意欲が湧いてきた頃と重なるところです。

1963年映画産業が斜陽になる少し前に、一足先にフリーになりました。5社協定もあり、なかなか難しいこともありましたが、そのお話はまた別の機会にしたいと思います。

上京してからの生活

『月下の若武者』のオーディションに合格して、1957年3月に生まれ故郷の室蘭から東京に引っ越ししてきました。17歳になりたてのまだまだ世間も知らない娘でしたので、両親からは2番目の姉と一緒に暮らすことを条件に、上京が許されました。実は三姉妹で、4つ上の長姉はすでに結婚をしていましたが、2番目の姉は室蘭で就職をしていたため、まだ実家に一緒に住んでおりました。歌を得意としていた姉には、東京で本格的に歌のレッスンを受けて歌手になる夢がありました。そこで、二人は夢と希望を抱いて大都会、東京へと移り住んだのです。

恵比寿の間借りを経て、半年後には初台のアパートを二部屋借りました。京王線沿線ですと、布田にある日活撮影所に通勤するのに便利でした。姉と同じ部屋では窮屈でしたが、隣同士だと何かと心強かったものです。特にありがたかったのは、姉が料理上手だったので、食事の心配をすることなく暮らせたことでした。

ところで、北海道の田舎から出てきた私にとって、東京の混雑した電車に無理やり乗り込むなんて、なかなかできるものではありませんでした。一度、乗り込みに失敗して、メイクボックスごと電車とホームの間に落としてしまったこともありました。他には、普通乗車券で急行に乗ってはいけないと勘違いし、ずいぶん電車を逃していたなんてことも…。こんなことの連続で、つくづく都会での生活の大変さが身に沁みていました。それでも、電車で通勤の必要がなくなるまでに、それほど時間はかかりませんでした。

当時は、映画が週に2本ペースで作られていた時代でしたから、『月下の若武者』に出演以降、おかげさまで順調に仕事もいただき、車で移動するようになったのです。ただし、本格的に俳優としての活躍をするのはもう少し後のこと。北海道弁がとれなくて、モデルの仕事をいただいておりました。ですから、映画で活躍するようになった当初は、モデル出身の俳優だと思われていた方が多かったようです。なお、モデルの仕事については、また別の機会にお話ししたいと思います。

日活から映画デビューしたきっかけ

長姉が、私に日活映画のオーディションを受けるように応募したのが、この世界に入るきっかけでした。当時、姉には松竹に入ることが内定していたものの、同時期に結婚も決まってしまい、念願の銀幕入りを断った経緯がありました。それで、自分が果たせなかった夢を、妹である私に託したのです。オーディションを受けたときは、まだ16歳。中学校を卒業して、室蘭文化学院の1年生の時でした。デビュー作『月下の若武者』で、津川雅彦さんの相手役に運よく選ばれ1957年3月に上京した時は、17歳になったばかりの頃でした。

実を言えば、その前にもデビューのチャンスは二度ほどありました。一度目は、長姉が東宝主催のミス花嫁に選ばれた時です。姉の付き添いのため母と一緒にいたところ、東宝の看板プロデューサーだった藤本真澄氏に、お声を掛けていただいたのです。ご存知のとおり藤本氏は「東宝の三人娘の生みの親」といわれていた方です。大変恐れ多いことでしたが、当時はまだ中学生でしたので、母がその場で丁重にお断りしていたのを覚えています。

ところで、小津安二郎監督といえば日本映画を代表する監督ですが、その小津監督の親友が、偶然にも室蘭にある證誠寺の住職におられました。その住職のおかげもあって、姉は松竹に赴くことになったわけです。例に違わず、東京見物に誘われて母と同行しておりましたが、その際に松竹のプロデューサーから、雑誌の表紙を飾らないかとお誘いをいただきました。これが、二度目のお話です。今でいう、グラビアアイドルでしょうか。大変光栄なお話でしたが、やはりまだ中学生ということで、母は断らざるを得なかったようです。

このように、三度目の正直というわけではありませんが、日活に入って映画デビューしたことは、今振り返ってみても、既定路線だったのかもしれません。なお、デビュー作『月下の若武者』については、また別の機会にお話ししたいと思います。

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