地井武男さんとの思い出

地井ちゃんが亡くなってもう10年になるのですね。改めて月日の流れの早さを感じています。地井ちゃんとは「北の国から」で夫婦役を演じましたので、ドラマ開始から最終話まで約20年間ご一緒させていただきました。私のキャリアの中でも、長期にわたって夫婦役を演じたのは地井ちゃんだけでしたから、亡くなったと聞いた時は寂しさもひとしおでした。因みにドラマが開始されたのが1981年、最終話が2002年、地井ちゃんが亡くなったのが2012年、そして今年が2022年です。初めてお会いしてからもう41年なんですね。

地井ちゃんは一言で言えば、ひょうきんな人。とても明るくて話題も豊富でしたから、自然と周りの人たちを笑顔にさせてくれましたね。具体的には言えないけれど、自虐ネタもたくさんあって随分と笑わせてくれました。もともと役者を目指すきっかけになったのが、日活映画への憧れとか。特に裕ちゃんが好きだったみたいで、独特な歩き方のモノマネを披露してみんなの笑いを誘っていました。裕ちゃんだけでなく、旭さんや錠さんのモノマネもすごく上手かったですね。日活への憧れが過ぎて、夜中に撮影所にこっそり忍び込んで夜が明けるまで銀座のオープンセットに佇んでいたというエピソードを聞いた時に、役者になりたいという若き日の地井ちゃんの熱い想いが伝わってきたのを覚えています。

さて、ドラマの撮影は殆どが富良野でのロケーションでしたし、夫婦役でしたので行動を共にする機会も多くありました。定宿にしていた富良野プリンスホテルにはテニスコートがありましたので、撮影の合間に2人で硬式テニスを楽しんだこともありました。地井ちゃんは学生時代に軟式庭球をやっていたそうで、乱打をしながら「やっぱり軟式が一番だ」なんて言ってましたっけ。そうそう、状況に応じて私に対する呼び方も変えていました。大抵は「まゆみさん」って呼んでくれるのですが、調子に乗っている時は「まゆみ」と呼び捨てにされることも…私の方が年上なんですけれどね!あるいは改まって何か言いたい時には「清水さん」って呼ぶのです。そうやって人の懐に入ってくる方でしたから、本当に多くの人から愛されていたと思います。

ところで、「北の国から2002遺言」(2002年9月放映)では、私が癌で亡くなるシーンがありました。実は、リハーサルから地井ちゃんは本気で泣いていたのです。本番さながらの迫真の演技というよりは、撮影の前の年に亡くなられた奥様を思い出して感情移入してしまったのでしょうね。棺桶で寝ていて、もらい泣きしそうになるのを堪えるのに必死でした。とても気の毒で気の毒で…最愛の伴侶を亡くされて、まだ立ち直れていなかったとわかり、とても切ない気持ちになりました。そういえば富良野のロケーションでも、この当時はお酒をかなり飲んでましたね。寂しさを紛らせていたのかなと思います。

この撮影の10年後に地井ちゃんも帰らぬ人となりましたが、休業の折、追悼の言葉も述べることができないでおりました。今、こうして思い出をお話しする機会があって少し救われた気持ちです。地井ちゃんの笑顔、けっして忘れません。本当にたくさん笑わせてくれましたね。思い出すと少し泣けてきます。とても楽しい思い出ばかりです。ありがとうございました。

春よ来い

日本テレビ系列で1982年11月〜1983年5月まで放映された人気テレビドラマ「春よ来い」に出演しました。「北の国から」(1981年10月〜1982年3月)の撮影が終わって間もなくのオファーだったでしょうか。主演の森光子さんをはじめ実力俳優が出演するとあって、ワクワクしながら撮影に臨んだのを覚えています。私の役どころは中条静夫さん演じる森光子さんの夫の愛人役で、これまでに演じた事の無い役柄でした。日活時代からほぼ等身大の役柄ばかりでしたから、新しい自分に出会えるような気がして胸が躍りました。

連続ドラマは全24話で、だいたい半年をかけて放映されました。撮影はもちろんそれよりも前に行われますが、一話につき4日はかかったでしょうか。森光子さんをはじめお忙しい役者が出演しておりましたから、撮影期間も半年近くかかったかと思います。具体的には稽古場で出演者の顔合わせをしてから、本読みといって台本を読み合います。一通り終わったら、監督と演者とのディスカッションを行いました。それだけで1日がかかります。それから立ち稽古といって、テーブルと椅子があるだけの稽古場で、実際に動きをつけながら演技をします。それにも丸1日がかかりましたね。合間に衣装合わせをしたり、そのあたりは役者の忙しさによってまちまちではありましたが、それからいよいよ撮影というわけです。こうしてみると日活映画の撮影と比較したら、ドラマでは役作りをする時間が多く与えられていましたね。

ところで、実際の私は小髙一筋ですので誰かの愛人など経験したことはありませんから、この役どころでは想像力を膨らませなければなりません。以前「やどかりの詩」というドラマで、自分と価値観の違う人間を演じる難しさを語った事がありました。今回も価値観のまるで違う人間を演じるということでは変わりはなかったのですが、自分では無い人間を演じる楽しさが加わりました。実際の自分では経験できないことがドラマの世界でできるなんて、何通りも生きている気分になります。これが役者の醍醐味だとすれば、それが本当にわかるまでに自分も成熟したということなのかもしれません。役者は「もし自分だったとしたら」という問いかけを常にしているのです。

このドラマで初共演となった大先輩の森光子さんですが、失礼ながら大変庶民的な方で、とても優しく細かい気配りのできる方でした。ドラマで初顔合わせの方もいますので皆さん緊張されますが、森さんはいとも簡単に場を盛り上げファミリーのようにしてしまうのです。ですから、稽古もトントン拍子に進みました。元よりこのドラマには芸達者な役者が揃っていましたから、とてもスムーズに進行したのを覚えています。そうそう、森さんは小髙の事も心配してくださって、稽古の終わりにお土産を持たせてくださったことがありました。もちろん役者ばかりでなくスタッフへの気遣いもきちっとされていて、役者としてはもちろん人としても学ぶところの多い方でしたね。とても尊敬していましたし、できるならもっとご一緒したかったのですが、残念ながらこのドラマでの共演が最初で最後でした。

それから中条静夫さんについても、このドラマで初共演したのが最後でした。中条さんも大ベテランでしたから、お芝居がとてもやり易かったです。とにかく長セリフが多くて大変そうでした。演技の合間にも、おひとりでベラベラとセリフの確認をなさっていたのを覚えています。苦労を重ねられて、晩年になってから活躍の幅が広がったのがちょうどその頃でしたから、とてもノリに乗っていた時でしたね。他には、沖田浩之さんが私の息子役で出演していました。若くて吸収も早く才能のある方だと思っていたのですが、早くにお亡くなりになられてとても残念でした。

このドラマは40年近くも前の事で細かいことまでは覚えていないのですが、とにかく達成感がありました。大先輩の森光子さんとの共演は、役者としての更なる可能性を見出せるきっかけとなったのです。というのも、経験した事の無い役柄への挑戦は自分自身を客観的に見つめる機会にもなり、また新しい自分を発見することができたと思えたからです。正直に言って、もっともっと芝居がしたいという意欲に掻き立てられました。しかし、それは非常に難しい状況にある事もわかっていました。自分の置かれた現実を考えれば、仕事に生きることは困難だったのです。

次回は、「北の国から」で共演した地井武男さんとの思い出についてお話しする予定です。

追悼 サワタボさん

このような文章を投稿することになるとは夢にも思いませんでした。サワタボさんがお亡くなりになったなんて、未だ信じられない気持ちです。つい先日もお電話したばかりでした。その時は「明日はゴルフだから」って仰ってたんですよ。高齢なのに普通にラウンドできるなんて本当にお元気だなって、感心していたところでした。コロナ禍でなければ早々に松阪に伺いたかったのですが、それも叶わずとても残念です。再会を果たせず本当に悔しいです。早過ぎですよ、サワタボさん!あんなにお元気そうだったのに…、突然の悲しいお知らせに未だショックを拭えません。

サワタボさんとの出会いは日活映画でしたが、コンビを組んでいたわけではありませんでしたのでそれほど共演数は多くありませんでした。しかし、偶然にもお互いの主演作品に相手役で共演していました。サワタボさんが主演の「銀座ジャングル娘」(1961)は、渡辺マリさんのヒット曲に乗せた軽快な喜劇でした。春原政久監督の作品でしたし、撮影現場はとても明るく楽しいものでした。それから同じく春原監督で私の初の主演作品「カミナリお転婆娘」(1961)、他には森永健次郎監督の作品で「十代の河」(1962)もありましたね。どれもSPですが、私にとっては印象深い作品ばかりです。お互いにデビューした時期も近かったですし、日活が一番輝いていた時代を共にした仲間との共演は、決して忘れることはできません。

当時の日活は裕ちゃんを筆頭に個性的な役者が揃っていました。中でもサワタボさんは今でいうところの「爽やかイケメン枠」でしょうか。性格もイケメンで明るくて、見た目そのままの素敵な好青年でした。サワタボさんは実際、私より少し年上ですが、いつも目線を合わせてくれるので年齢差を感じた事がありませんでした。そのくらい大人で気さくな方でしたから、いつも気持ちよく仕事をさせていただきましたね。当時は「三悪トリオ」のメンバー(他に小林旭さんと川地民夫さん)だったそうですが、悪のイメージは全くないので個人的には少し違和感を覚えます。

ところで、私は1963年に日活を離れましたが、どうやらサワタボさんも同じ時期だったようなのです。当時は自分のことで精一杯でしたから、他のメンバーの動向などは後で知ることが多くありました。そんな訳である日、ドラマでご一緒する機会にサワタボさんも日活を離れたことを知りました。サワタボさんのマネージャーは松村さんという方でしたが、偶然にも私がお世話になっていた小橋マネージャーの旦那さんだったのです。私たちは松村さんと小橋さんが運営する事務所に所属していましたから、道理でドラマでご一緒する機会も多かったのです。こうして、日活を離れた後もサワタボさんとはご縁がありました。

その後、私も夫の闘病生活に付きっきりで随分と仕事を離れておりましたから、仕事の関係者とは殆ど連絡を取っておりませんでした。サワタボさんとも活動を再開してから本当に久しぶりにお電話をしたくらいです。当初は、知らない番号だと思われて3回くらいキャンセルされてしまいましたけど、しつこく掛けたら出てくださいました。そうそう、以前にサワタボさんと共演したドラマ「白い魔魚」(1965年)について投稿したことがありました。私の主演ドラマでしたが、あまり詳しく覚えていなくてサワタボさんにお電話したんです。そうしたら「俺、全然覚えてないから!」って即答されてしまいました。…それも今年に入ってからのやり取りでしたね。

サワタボさんとドラマの共演をした後は殆ど連絡を取ることはありませんでしたので、その後の活動のことは再会した時に是非ぜひお話を聞きたいと思っておりました。本当に残念で仕方ありません。それでという訳ではありませんが、訃報に接してからサワタボさんのご著書がある事を知り、手に入れて今、読んでいます。ご著書「役者人生ひとり旅」には、日活時代の知らなかったエピソードがたくさんあって興味深いですし、フリーになられた後は舞台を随分やられていた事など知らない事がたくさん書かれていました。実際にお会いして懐かしいお話もたくさんしたかったですね。返す返すもとても残念でなりません。

長くなってしまったけれど、ひとつ思い出した事がありました。世田谷に住んでいた頃、小髙と一緒にサワタボさんの家に遊びに行った事がありました。サワタボさんの玄関には水槽があって、綺麗な熱帯魚が飼われていたのです。当時はとても珍しかったので、小髙も私も興味深く水槽を覗いていたら「尊ちゃん、良いでしょう⁈結構、楽しいから!」と言われて、それから私たちもノリノリ(?)で熱帯魚を飼った事がありました。小髙は凝り性なので、大きな水槽に珍しい熱帯魚を一時期、100匹ほど飼っていたかしら…今ではそれも良い思い出です。

昨今は昭和ブームだそうで、昔の日活映画もたくさん配信されています。残念ながら亡くなられた役者も多くなってしまいましたが、映画の中でいつまでも生き続けてくれているのが嬉しいですね。サワタボさんにとっても、日活での活躍がその後の役者人生の支えになっているのではないでしょうか。数少ない共演ではありましたが、写真と共に振り返りながら当時の日活の魅力、サワタボさんの魅力を伝え続けていく事が、残された日活の仲間としてできることなのかなと思っています。

サワタボさん、日活の仲間として出会えたことを心から感謝しています。どうか安らかにお眠りください。本当にお疲れ様でした。そして、ありがとうございました。

ドラマ「北の国から」に出演したきっかけ

長年住み慣れた千葉から一昨年に故郷の北海道へ引っ越しをしましたが、地元ではドラマ「北の国から」のファンがとても多いことに驚いています。もちろん国民的なドラマですので、全国にファンはたくさんいらっしゃるかと思いますが、やはり地元の方の「北の国から」愛は格別のようです。2002年の最終話を最後に暫く活動を休止しておりましたし、札幌に住んでいても私のことを知る方はほとんどいないので、とても気楽に生活をしているところですが、何かのきっかけで「北の国から」の話になると「中畑のおばさんですか?!キャー!」みたいになってしまって、少々戸惑うことがあります。今では、日活で活躍した俳優というより「中畑のおばさん」のインパクトの方が断然強いんですね。嬉しいけれど、正直言うとほんの少しだけ寂しさも覚えます。日活映画からドラマへと一枚看板で活躍していたキャリアに比べたら、私の中では「北の国から」にはほんの少し出演した、という感じだったからです。

ところで、このドラマに出演するきっかけを作ってくれたのは当時マネージャーだった石渕さんです。ハワイ旅行から帰ってきて間もなくの頃だったでしょうか。ちなみに日活を離れてからマネージャーは小橋さんが担当していましたが、病気のため石渕さんに交代していました。石渕さんがフジテレビのプロデューサーをしていた岡田太郎さん(夫人は吉永小百合さん)と引き合わせてくれたのです。当時は割とフジテレビのドラマに出演する機会も多かったので、岡田さんのことは既に存じていました。実際の打ち合わせは、フジテレビの食堂で三人で気軽にお茶を飲みながらという感じだったでしょうか。当時、台本はまだ刷り上がってはいなかったものの、大体のことがほぼ決まっていた段階でした。「富良野にある材木屋のお母さんの役」をやらないかと言われ、自分にぴったりだなと直感しました。おまけにロケがあるタイミングで、北海道の両親に会いに行くこともできますしね。更にありがたいことに、小髙の病状も考慮して出演の長さも調整してくださるという事でしたので、その場ですぐに返事をしたのを覚えています。

当初は二クールの予定だったドラマ「北の国から」でしたが、最終的には20年も続いた超大作となりました。こんなにも国民的なドラマになるなんて、当初は全く想像もしておりませんでした。ご縁あって出演する事ができて、本当にありがたく思っています。そして今、北海道で暮らす中、このドラマへの出演がインパクトとなった事で活動再開へ前向きになれたのは言うまでもありません。この作品に出会えた事を心から感謝しています。

次回も「北の国から」についてお話しする予定です。お楽しみに。

ハワイ旅行と突然の挙式

1981年4月12日、ハワイのホノルルにあるマキキ聖城基督教会にて、小髙と私の挙式が執り行われました。入籍してから実に12年後のことです。当時、偶然居合わせた日本人観光客の方たちにも飛び入りで参列をしていただき、ささやかながら心温まる挙式となりました。今振り返ってみても、とても幸せに満ち溢れたものでしたが、実は全く想定外の出来事だったのです。というのもこの挙式が実現したのは、長門裕之さんと南田洋子さん夫妻の計らいでハワイ旅行のついでに行われたものだったからです。それだけに驚きと感動で一生、忘れることのできないものになりました。

そもそもこのハワイ旅行は、晃夫ちゃん(長門裕之さんの本名)夫妻のハワイでのコマーシャル撮影が予定されていた折に、一緒に行かないかとお誘いを受けたものでした。その頃、小髙の体調は思わしくなかったのですが、ひょっとしたらハワイの温暖な気候で少しは良くなるのではないかと夫妻が気にかけてくださったのです。小髙は体力的に自信がなかったのでギリギリまで行くのを躊躇していましたが、それでもお言葉に甘えて思い切ってご一緒することにしました。私にとっては生まれて初めてのハワイ旅行でしたが、楽しみの反面、小髙の体が保つのか心配で仕方がありませんでした。

さて、当時は日本の景気も上り坂で沢山の日本人がハワイへ観光に来ていた時代でした。温暖な気候と美しい自然が魅力のハワイですが、ホテルのバルコニーから目の前に広がる海を見た瞬間、小髙も私も思わず歓声を上げました。お天気も良く湿気が少ないので空気が軽くて気持ちがいいし、葉山で毎日眺めている穏やかな海は小ぢんまりとした箱庭のようでしたが、ハワイの海は壮大でスケールがまるで違うものでした。健康の不安も一気に吹き飛んだ感じで、飛行機の中では具合悪そうにしていた夫の表情が、笑顔と共にみるみる明るくなっていったのを覚えています。

ところで、ハワイに着いた翌日のこと、思い掛けず洋子さんがホテルの部屋に真っ白な衣装を届けてくれました。それは伝統的なハワイの婚礼用の衣装で、袖に大きなレースがあしらわれた上着と、男女ともにスラックスを組み合わせたセットアップでした。実は、行きの飛行機の中で晃夫ちゃんから挙式をしたかどうか、さらりと質問を受けていました。イタリアで行う予定がキャンセルになって以来、実現していませんでしたが、晃夫ちゃん夫妻の粋な計らいで私たちはとうとうハワイで挙式をすることになったのです。式場の手配から衣装のこと、おまけにコマーシャルの撮影隊も一緒に来ていたので、都合よく結髪さんの果てまで全て手配してくれました。そうそう、ギリギリまで指輪の準備をしていなくて、晃夫ちゃんと小髙が慌てて指輪を調達してくれました。それは決して高価な物ではないのですが、薔薇の花をあしらった珊瑚の指輪で、今でも大事な私の宝物です。

ようやく実現した挙式でしたが、それまで半ば諦めていたものですから感激もひとしおでした。ウェディングドレスではなくパンツスタイルというのも、自分のキャラクターに似合っていたように思います。入籍してから12年目で私たち夫婦も地に足が付いたものでしたが、気持ちも新たに身が引き締まる思いがしたのを覚えています。あれから41年…今から思えばちょうど折り返しの時点でした。振り返れば小髙も6年前に身罷りましたし、本当に色々な事がありました。たかが挙式、されど挙式ではありませんが、夫婦としてのけじめが付けられた事は、その後の私たちの人生にとって大いなる意義がありました。なにしろ、最後まで添い遂げる事ができて、私も第二の人生を胸を張って生きていけるのですから…。

次回は、ドラマ「北の国から」についてお話しする予定です。

夫の療養生活と仕事の配分

どうにか小髙も日常生活を送れるほどに回復しましたが、俳優の仕事をする事はできなくなりました。日活を離れてから石原プロモーションに所属したので、仕事のオファーはいくつもありました。中には小髙と是非とも仕事がしたい監督からの直々の申し出もありましたし、裕ちゃんもかなり気にしてくれていました。何とか復帰してもらいたいと熱心に説得したかったようなのですが、当の本人が諦めてしまっていたのです。思うような役作りができるような体力を失っていたので、中途半端な仕事をするぐらいならキッパリと辞めてしまいたいと考えていました。いつ発作が起きてもおかしくない状態でしたので、致し方なかったのかなと思います。

ところで、小髙は幼少の頃から詩を書いておりましたから、葉山の生活でも自然と詩を書くことが日常となりました。自然の恵みの中で、自由に思うまま筆を運んでいたのをそばで眺めていて、小髙の生きる目的がはっきりと見えてきたのがわかりました。俳優としての夢は破れましたが、新たに生きる希望を見出せたことは何よりの事でした。しかし、それは同時に夫の収入がほとんど見込めないことを意味するものでした。夫の療養に寄り添いたい気持ちを抑えて、仕事に完全復帰すべきかどうかとても悩みました。

実は以前、世田谷にいた時にも悩ましい時期がありました。小髙が余命宣告を受けた時です。ある日、離婚をして仕事に打ち込んではどうかと提案してきたのです。今思えば、私に離婚する意思がない事がわかっていた上での発言に違いないのですが、夫も相当不安だったのでしょうね。その時点で、自分にとっての価値ある生き方とは、離婚してまで俳優としての仕事をすることではないとはっきりとわかっていました。まして、余命宣告を受けている夫を放ってまで仕事ができるものでしょうか。精一杯、最後までそばに居たいと思っていました。

そして、葉山に住み始めて小髙もようやく日常生活を送れるようになり、改めてプライベートと仕事の配分をどのようにすべきかを考えた時、それは同時に自分の人生を見つめ直す機会となりました。夫とあと何年一緒に暮らせるかわからない中、葉山で過ごす時間を大切にしたい思いが強くありました。そこで、お金では決して買えない価値ある時間を過ごすために、逆にどのくらい仕事をするべきかを考えたのです。日活を離れて俳優としてのキャリアを積むため必死に仕事をこなしてきましたが、それを半ば捨てる覚悟で仕事を選ぶ事にしました。

結局、できるだけ葉山から離れる事のない仕事を選んだおかげで、徐々に仕事の依頼は減ってしまいました。当然の結果ですが、一枚看板というわけにはいかなくなりました。その所為もあってか、困った事に日焼けした肌の色は濃くなる一方となったのです。

次回はハワイでの突然の挙式ついてお話しします。

砂浜の奇跡

瀕死の状態と言っては大袈裟かもしれませんが、小高は余命も宣告されておりましたのでほとんど寝たきりの状態で葉山に移ってきました。海が手に届くところにあるのに、そこに辿り着けないもどかしさを感じていたでしょうから、どうにか抱えて砂浜まで連れて行くことにしたのです。砂浜は目の前に、歩いて一分もかからない距離でした。ようやくふたりが素足で砂浜に下りた時、砂の温かさに体中が包まれるような感じがしました。小髙は時間をかけて静かに砂浜に横たわり、そして目を瞑りました…自然の力を全身で受け取るかのように。私たちは海風を感じながら、自然の中で過ごせる幸せを噛み締めていました。

葉山での生活は、午前中はのんびりと自宅で過ごして、お天気が良ければ午後からは砂浜へ行くのが日課となりました。おにぎりを作って持って行き、何時間も砂浜に寝転がって過ごすのです。小髙は極力、入院したがりませんでしたので、静かに過ごす他はありませんでした。それで私も、仕事は小髙の体調を考慮して少しずつセーブすることにしていました。実際、夫がこの状態では、仕事もそんなにしている場合ではなかったのです。

毎日、ふたりで砂浜で過ごすようになってから、徐々に小髙も正気を取り戻しているのが手に取るようにわかりました。砂浜は歩くも良し、寝転がるも良し、とにかく砂が肌に触れると健康になれる気がしたのです。何時間でも砂浜で過ごしたくなりました。それから少しずつ海に入ることにしました。すると「水を得た魚」ではありませんが、みるみる元気になっていったのです。葉山に越してきたのが2月でしたが、夏が過ぎて秋になる頃には普通に日常生活が送れるほどになっていました。最初はどうなることかと思いましたが、自然の中で過ごすことがどんな治療にも勝ることか。今、振り返ってもこれは砂浜の奇跡でした。小髙は、砂浜で、葉山の海で、奇跡的に回復したのです。

でも、副作用もありました。それは私に…。ひどく日焼けしてしまって、気がついたら真っ黒に!マネージャーの小橋さんからは「仕事が来なくなるから、これ以上日焼けはしないように」と心配されたものです。女優が日焼けするなんてもっての外でした。マネージャーだけでなく周囲の人も心配するほどでしたが、そんな事はお構いなし。だって、小髙が回復したのですから。私には仕事よりも夫が優先だったのです。

次回は夫の療養と仕事との両立についてお話しする予定です。

海を求めて葉山へ(1977~)

夢破れてイタリアから帰国後、小髙は短期の療養を経て俳優活動を再開しました。日活に見切りをつけたかったものの、それから連続テレビドラマと映画にそれぞれ一本ずつ出演しておりました。いずれも帰国後にオファーがあったものですが、そこには断りきれない理由がありました。それは、ドラマがとても魅力的な役どころだったのと、映画は石原プロモーションが制作に関わっていて、裕ちゃんから直々にオファーを受けたものだったからです。

ドラマはナショナルゴールデン劇場「花と龍」(1970年3月〜5月)で、主演の渡哲也さんを支える三枚目の役どころでした。満身創痍で挑んでおりましたが、このドラマにおいても相変わらず人一倍、役作りに拘っておりました。体調が思わしくない中、スケジュールに穴を開けないよう自ら注射を打ちながら役に打ち込んでいたのを、ハラハラしながら見守っていたのを覚えています。実際、撮影終了後はさらに体調を悪くして、再び入院することになってしまいました。ですから、このドラマの出演で俳優生命が絶たれたと言っても過言ではありません。それだけに小髙の演技は、言葉には尽くせないほどの素晴らしいものでした。俳優小髙の遺作と言ってもよいほどの作品ですので、機会があればもう一度観てみたいと願っています。

そして映画は、日活での最後の出演作品となりました「スパルタ教育 くたばれ親父」(1970年8月12日公開)です。この撮影を最後に小髙は同年6月18日、正式に日活を離れました。しかし、イタリアの帰国からドラマと映画の出演を相次いで果たし、精魂使い果てたためか深刻な病魔に冒されておりました。騙し騙し仕事をしては休んでを繰り返していたのですが、ついには起き上がる事もできず、世田谷の自宅で寝たきりの生活を送っていたのです。実は、余命の宣告も受けており、医者からはあと2年くらいしか生きられないだろうと言われていました。その時、どうせ短い命なら、大好きな海を眺めながら過ごしてほしいと思い立ち、すぐさま物件を探し始めました。とにかく一刻も早く引越ししなければならないと考えていたからです。

仕事の都合上、首都圏から大きく離れることはできなかったため、湘南エリアを中心に探し始めました。なかなか見つからないため、東伊豆から熱海、下田まで探しました。とにかく海辺の家に住みたかったのですが、海を近くに眺めながら過ごせるところは探すのが難しかったですね。その頃、私についたあだ名が「不動産屋」でした。おかげさまで不動産に詳しくなってしまって、周りからはそのように揶揄されていたのです。そして最終的には、知り合いの伝手で葉山の物件に辿り着きましたが、そこまでに約一年がかかりました。

ようやく引っ越しの日、寝たきりの小髙を毛布に包んでタクシーに乗せて葉山の新居に向かいました。そこは、葉山の御用邸のすぐ隣、築100年にもなる茅葺屋根が特徴の一軒家でした。海が目の前に迫って、これ以上ないほどの贅沢な環境でしたので、小髙もさぞかし喜んでくれるだろうと期待しておりました。しかし、葉山に着いてただ一言、「残酷すぎる」と…。独り言のように呟いたのを聞き逃しませんでした。身動きできなく、目の前の海にさえも触れることができないことへの消沈は、私の想像を遥かに超えるものでした。それでも、余命幾許もない小髙を支えるには、心を明るくして気丈に自らを奮い立たせなければならなかったのです。

次回は、葉山での暮らしについてお話します。

叶わなかったイタリアでの夢

映画が斜陽産業になってから、日活も生き残りをかけてロマンポルノへ移行するまでの過程で、作品にも少しずつポルノの要素が増えていったそうです。私は既に日活を離れていましたが、小髙はまだ所属しておりましたので、その辺りの話も聞かされておりました。ある日、小髙が渡された台本を見て「やってられない」とばかりにゴミ箱に叩きつけたのを誰かに見られてから、日活との関係も悪くなってしまったとか…。とにかく役者として更なる高みを目指していたところ、日本にいる理由がないと思ったのでしょうね。当時は私も忙しくしていたので、小髙が密かにイタリアで挑戦したいという話は割と直前に聞かされました。

実は、小髙がチネチッタ撮影所に行きたいと思うきっかけは二つありました。一つは俳優座の一期上のモヤさん(仲代達矢さん)が、一足先にチネチッタ撮影所で西部劇に出演された話を聞いたことです。どんな作品かはわかりませんでしたが、小髙が「モヤが出てるので自分も」と呟いていたのを覚えています。もう一つは、小髙が親しくしていた大学の先生が声楽の勉強をしにイタリアへ行くという話を聞いたことです。その先生は小髙とあまり歳はかわらなかったのですが、何故だか「おとうさん」という愛称でした。この「おとうさん」の詳しい話はまた別の機会にしたいと思いますが、その方が留学するタイミングに合わせて小髙もイタリアに行きたかったというわけです。

まず「おとうさん」が先にイタリアに行って、小髙の住むアパートの手配などをしてくれていました。それから小髙は日活に見切りをつけて、日本を離れたのです。当初、イタリアに2年は住む予定でした。私はといえば、イタリアで挙式をしてから少しの休暇を取る予定でしたが、状況を見て一緒にイタリアで仕事を探すつもりでした。日活を離れてから6年が経ってドラマ出演などで忙しく活躍していましたが、やはり夫を近くで支えたい思いが強かったのです。ただし、マネージャーの小橋さんにはまだ言えないでおりました。今思うと、何とも言えない不安な気持ちがあったんでしょうね。小髙は元々病弱でしたし、何となく嫌な予感はしていたのかもしれません。

結局、イタリアでの挙式も小髙の夢も幻に終わりましたが、その後、療養の為に移住した葉山での生活が何事にも代えられないほどの価値あるものでしたので、私の中では帳消しになりました。おそらく小髙も…。そこで次回は、二人の葉山での暮らしについてお話ししたいと思います。

映画からドラマの時代へ

「気がついたらドラマの時代になっていた」という感じでした。日活を離れるのは一苦労でしたが、その後は必死に仕事をこなしてきました。フリーになってからは後ろ盾がありませんから、気を抜く暇がなかったのです。映画はもちろん、ドラマに舞台、その他もろもろ大忙しでした。圧倒的にドラマの仕事が中心でしたが、今になってドラマの出演履歴を調べようにも、台本を殆ど処分してしまいましたので分からずじまいでした。そこでインターネットで調べたところ、130作品あまりのドラマに出演した記録がありました。連続ドラマもありますから、話数にするとどのくらいになるでしょうか…300弱話数くらいかしら。一方、その間の映画の出演本数は20本もありませんから、ボリュームから言ってもドラマの時代になっていたことがわかります。

ところで、私生活の話をすれば1969年についに小髙との入籍を果たしました。実は入籍の翌日、小髙は長期滞在の予定でイタリアに旅立っておりました。第一の目的は私との挙式をすること、第二にはイタリアのチネチッタ撮影所で新たに仕事をする夢を実現するためでした。本来は一緒に行きたいところでしたが、あいにく連続ドラマ「やどかりの詩」に出演していたので、撮影の終了を待ってからイタリアで合流する予定でした。小髙は3ヶ月くらい先に出発していて、私を受け入れる準備をしつつ、チネチッタでの仕事を模索していたのです。ところが、ドラマの撮影が終わって間も無く、小髙が病に倒れたとの一報を受けました。とにかく小髙の事が心配で、何はともあれイタリアに駆けつけたい気持ちもありました。しかし、イタリアでは言葉も不自由なため現地で療養をするのは現実的では無いと判断し、何とかして帰国してもらうことにしたのです。その時は自分でも驚くほど冷静に判断していました。入籍も済ませておりましたし、妻としての覚悟ができていたのかもしれませんね。羽田空港で痩せ細った顔色の悪い小髙を出迎えた時、想像以上に状態が悪いことを知り、安堵するより緊張感が走った事を覚えています。それからすぐに入院したのです。

イタリアで挙式する予定にしていましたので、「やどかりの詩」以降は少し休暇をとっておりました。束の間ですが、自分の時間が持てたのです。もちろん、小髙の事が一番心配でしたので考えることは多かったのですが、少し自分を振り返る時間も与えられました。それまで必死に仕事をしてきたので、全体を見回す余裕はありませんでしたが、ふと、自分はいち早く映画の世界からドラマの世界へ移ってきたのだと悟ったことを覚えています。流れに逆らわずき生きてきたつもりでしたが、それまでの世界に見切りをつけるのも早かったのかなと思います。それにしても人生は何が起こるかわからないものですね。ドラマの撮影後はイタリアでの休日を夢見ていたのに、厳しい現実を突きつけられてしまいました。でもどうにかして乗り越えてきたのは、楽天的な性格の所為でしょうか。結婚と同時に、夫の闘病を支えながらドラマの世界で生きる覚悟をしたのです。

Copyright © 2021 - 2023 Smart Office One. All rights reserved. 無断転載厳禁