社会的な問題作「やどかりの詩」

有馬頼義原作の連続ドラマ「やどかりの詩」(1968年6月〜)に主演しました。このドラマは子供のできない夫婦が人工授精を行うかどうか葛藤し、精子の提供者との三角関係に悩むというかなり重たい内容です。当時、社会的な問題作と言われておりました。一方、1968年といえば小髙と入籍する前の年でしたし、事実婚だったとはいえ二人の間で子供のことはまだ問題になっていなかった頃です。それまでに演じたことのない役柄でしたので、「もし自分だったらどうなのか?」と常に問いながら取り組んでいたことを覚えています。役柄に自分自身を当てはめていく事が難しかったですね。

夫の役は塚本信夫さんでしたが、俳優座出身のベテラン俳優で小髙の一期先輩。役作りで不安のあった私を随分と支えてくださったのを覚えています。俳優間の信頼関係がドラマの質に影響を及ぼしますが、相手役が小髙と親しいということでとても助けられました。振り返ってみれば、日活では俳優同士が既に仲間内でしたからやり易かったわけです。フリーになってからはそういう訳にもいきませんので、日活時代のありがたさをひしひしと感じました。このように離れてみてわかることもありましたね。

ところで私自身のことを言えば、もちろん小髙との子供が欲しかったのですが、残念ながらその願いは叶いませんでした。ドラマに出演した時には、将来、自分にも不妊の問題が起こるとは夢にも思っていませんでした。昨今では医療も進んでいろいろな方法があるようですが、私たちは子供のいない人生を受け入れたのです。このドラマへの出演によって、不妊の問題を夫婦でどのように考えていくのかを、演技とはいえ経験できた事は、少なからず実生活においても役に立ったのかなと思います。

役者という仕事を通じていろいろな人の価値観に触れる事は、その都度、自分自身の価値観も見直す機会になりました。自分という人間はひとりしかいませんが、役者は演じる事でいろいろな人の人生を疑似体験できるのが面白いのです。自分自身に似ているキャラクターを演じるのは容易いですし、その役柄の人生をそこまで深く考える必要もなかったかもしれません。「楽天夫人」なんかは良い例です。しかし、このドラマのようにその時の自分とはかけ離れている役柄を演じる場合に、自分とまた別の人生を演じる醍醐味を味わえるものだと思います。このように演じる難しさを経験すればするほど、役者の仕事に夢中になっていったのです。

次回はドラマ全般について振り返る予定です。

楽しかったドラマ「楽天夫人」

日活を離れてから念願のドラマ出演を果たしましたが、その中でも印象に残る作品の一つに「楽天夫人」(関テレ、1967年1月6日〜6月30日、全26回)がありました。宝塚映画製作所の作品でしたが、1956年に松竹系で映画化もされておりました。念のためあらすじを確認しましたが、映画とドラマでは少し内容が異なっているかもしれませんね。いずれにしても、「楽天夫人」の主人公はとにかく明るくて機転の効く女性でしたので、根が明るい私にとっては役に入り易かったのを覚えています。因みに言えば、私の場合は与えられた役柄に自分自身をどのように合わせて行くのか、考えながら役作りをしていました。当然の事ながら、等身大の役柄の場合はとても楽に役に入ることができます。台詞も自然に自分のものになったものです。

さて、ドラマの舞台は、大阪の千里ニュータウンにあるアパートの一室です。当時は1970年に開催が控えていた大阪万博の準備のため、街全体が大変盛り上がっていた時期と重なっておりました。戦後、日本の復興の象徴的なイベントとなった大阪万博でしたし、会場に隣接する千里丘陵は建設ラッシュでとても賑わっていたものです。人々の気持ちも前向きで明るく、このドラマの主人公の明るさも手伝って、私自身も大いにやる気に満ち溢れていたのを思い出します。

ところで、ドラマの撮影では宝塚の撮影所と千里ニュータウンを行ったり来たりしていました。アパートの中は撮影所のスタジオで収録しますが、玄関の出入りは実際のアパートで行われました。また、アパートの近くのスーパーで買い物をするシーンは、実際に現場近くのスーパーを借りて撮影されました。その際、身に付けるものなどの小道具や衣装が、ロケーションとスタジオでの撮影とで齟齬がないようにしなければなりません。スクリプターさんの記録が頼りになるところですが、当時は私たち俳優も記憶しておくべきものでした。小道具といえば、私は吸いませんが、タバコの長さにも気をつけなければなりませんでした。例えば、スタジオで撮影された時に吸っていた長さと、玄関を出た時の長さが違っているわけにはいきません。このドラマでは日常生活を送る上での出来事をベースに物語が展開していきましたので、いつも細かい配慮が必要とされていました。

ドラマの撮影は半年以上に及んだでしょうか。期間中はキャストはもちろんのこと、スタッフとも家族のように接しておりしたのでとても仲良くなりました。撮影がお休みの日でも集まり、家族同伴でハイキングに出かけたこともありました。それから宝塚の撮影所の側には川が流れていて、撮影の休み時間にその川で釣った魚をその場で焚き火をして焼いて、みんなで食べた事なんかもありました。こんなに和やかで楽しい撮影期間を過ごしたドラマは、後にも先にもありませんでしたね。

最後に宝塚といえば宝塚歌劇団ですが、撮影所の敷地の中に宝塚劇場がありました。実は、撮影所の裏口から劇場の裏口へ通じておりましたので、こっそりと覗きに行った事がありました。長姉があこがれていた宝塚、幼い頃に姉から話をずいぶんと聞かされておりましたので、実際はどんなものなのか、どうしても覗いてみたくなったのです。初めて見た時の衝撃は、今でも忘れる事ができません。「楽天夫人」で日常生活を演じていた私にはものすごく刺激的でした。ゴージャスなステージと煌びやかな衣装を身に纏っているタカラジェンヌは、非日常そのもの。何という夢の世界に来てしまったのだろう?!と、しばしボーッとしてしまったのを覚えています。

そんなわけで、撮影はもちろんの事、プライベートな時間もとても充実していた「楽天夫人」。娯楽の中心が映画から急速にドラマへと移行する中で、この作品に主演できた事は幸運でした。とても感謝しています。次回も引き続きドラマのエピソードについてお話しする予定です。

初めての連続ドラマ「白い魔魚」

日活を離れてからは、松竹や大映などでの映画出演の他、新たにドラマへも挑戦しました。元々、演技の幅を拡げたい思いもあって日活を離れましたから、念願が叶ったものです。映画とドラマではどれほど勝手が違うのか興味津々でしたから、緊張は全くと言っていいほどしていませんでした。とにかく新しい世界への期待感が高まり、ワクワクしていたのを覚えています。

実際に撮影が始まって分かったことは、ドラマは映画の縮小版だということです。当たり前かもしれませんが、スタッフの数は映画の1/2〜1/3くらいでしょうか。撮影部隊はとてもコンパクトな印象でした。連続ドラマなので半年間は一緒に仕事をしますから、自ずとキャストもスタッフも家族のように親しくなりましたね。皆で一緒に食事をして、和気あいあいとした雰囲気の中で、気持ちよく仕事をしていました。あるドラマでは撮影がオフの日も集まってハイキングに出掛けたこともあって、写真が残っておりました。松竹映画で受けたカルチャーショックが嘘のように吹き飛んだのを覚えています。

さて、連続ドラマに主演した最初の作品は舟橋聖一原作の「白い魔魚」でした。ライオン奥様劇場で1965年3月1日〜4月2日までの25回にわたって放送されたものです。この作品は、まず1956年に松竹で映画化されておりました。当時は映画が先行される傾向にありましたが、映画での評判をみてドラマ化するかどうか決めていたとすれば、今の時代とは順番が逆でしたね。このように振り返ると、娯楽の中心が映画からドラマに移行する時代の中にいたことがよくわかります。「白い魔魚」を主演するにあたり原作者である舟橋先生ともお会いしましたが、このドラマは時間をかけてとても丁寧に企画されたものだという印象を受けました。

ところで、「白い魔魚」は岐阜が舞台でしたので、東京と行ったり来たりしていました。共演は同じく日活出身の沢本忠雄さんでしたので、気心が知れてとてもやり易かったのを覚えています。でも残念ながら台本は処分してしまったし、詳細を思い出すことができません。それで先日、念のためにサワタボさんに連絡して訊いてみたのですが、「俺、全然覚えてないから!」とアッサリ言われてがっかりしてしまいました。それもそのはず、もう60年近くも前のお話ですから…仕方がないですよね。機会があればドラマも見直してみたいものです。

次回は、ドラマ「楽天夫人」のエピソードについてお話しします。

「太陽を抱く女」ほか松竹映画への出演(1963~)

1963年の後半に日活を離れてフリーになりましたが、予め松竹映画とは年間4本の出演契約を交わしていました。自宅で保管している台本や松竹のデータベースなどを辿って出演本数を確認しましたが、はっきりしている分としては1967年までに15本の作品に出演しておりました。日活時代から比べると遥かに少ない本数ですが、並行して連続もののテレビドラマにも出演しておりましたので、引き続き忙しくしていた覚えがあります。それにしても半世紀以上も前の事なので、記憶も朧げなところです。

ところで、松竹映画については1963年に公開された「結婚の条件」の他に「見上げてごらん夜の星を」という作品もありました。坂本九さんの主演で主題歌も大ヒットした、番匠義彰監督の作品です。九ちゃんとは日活映画「竜巻小僧」(1960)でもご一緒した事がありました。ちなみに元々日活映画のファンだったそうで、私にファンレターをたくさん書いてくださったとのこと。当時は忙しくて、まさか九ちゃんからいただいていたとは知りませんでしたが、「ちっとも返事が来なかった」と本人から照れながら抗議されたのが懐かしい思い出です。なんでも目の大きい人が好みだったとか⁈

そういえば番匠監督といえば、もう一つ1964年に公開された「太陽を抱く女」という作品にも出演しました。この作品では菅原文太さんと夫婦役で共演しました。文太さんは東映映画で頭角を現す前でしたので、モデル出身のイメージが強かった頃です。後からわかったことですが、中原淳一先生のモデルもされていたとのこと。現場では他愛のない話をたくさんしましたが、今思えばモデル時代の話もしてみたかったですね。きっと共通の話題もあったのでないでしょうか。文太さんといえばトラック野郎や任侠映画のイメージがありますが、実際は荒々しいところは全くなくて、本当に素朴でとても優しい方でした。

番匠監督については最近『番匠義彰映画大全』という書籍が発売されました。佐藤利明さんのご著書ですが、作品の内容が丁寧に紹介されておりました。振り返るにあたりとても助かりました。

次回は出演したドラマについてお話しします。

田中邦衛さんの一周忌に寄せて

田中邦衛さんと初めてお会いしたのは、「北の国から」の本読みでご一緒した時でした。邦衛さんは俳優座のご出身で小髙の後輩でしたし、存じ上げてはいたのですが、実際にお会いしたのはこの時が初めてでした。そして最近、日活を振り返る活動をしている中で、意外にも邦衛さんが日活映画に出演されていたのを知って驚きました。小髙とも共演しており、スチール写真も自宅にちゃんと保管してありました。日活時代に全くお会いする機会がなかったのは、とても残念に思います。

ところで、俳優座出身の皆さんは小髙のことを気軽に「尊ちゃん(そんちゃん)」と呼んでくださっている中で、邦衛さんは「小髙さん」と呼んでくださっていました。年齢は小髙よりも一つ年上でしたし、気軽にお呼びいただいてもよかったのですが、俳優座で後輩だったという姿勢を崩すことなく、気を遣われていたんですね。そして、病気療養をして俳優としての仕事ができなくなってしまった小髙を気遣ってか「小髙さんはお元気にしておられますか?」と、お会いする度に必ず声をかけてくださったのです。とても紳士で、礼儀の正しい方でしたね。邦衛さんとお会いすると、温かい気持ちになったのを覚えています。

話は「北の国から」に戻りますが、ロケ地は北海道の富良野市で、役者やスタッフの定宿は富良野プリンスホテルが指定されておりました。ロケ地に前日入りしたある日、夕食には少し早かったのですが、一人でしたし簡単に済ませてしまおうとレストランに向かいました。中途半端な時間でしたのでどなたもいらっしゃらないと思っていたら、邦衛さんがお一人で入って来られたのです。奇遇な事でしたからお互いに少し驚いたところで、邦衛さんに席をご一緒しないかと誘われました。照れ屋な邦衛さんらしく、口を尖らせながら「まゆみさん、ワインでもどお?」って気軽に声をかけてくださったのです。実は、それまで小髙以外の男性と二人でワインを飲んだことが一度もなかったので、正直言って少し戸惑いましたが、せっかくの機会なのでご一緒させていただくことにしました。

ほんのひと時でしたが、邦衛さんとワインをいただきながら和やかに過ごしたのを覚えています。とても貴重な思い出です。ドラマは長期に渡りシリーズ化されましたが、小髙の療養も考慮していただき出番を少なめにしていただいたこともあって、後にも先にも邦衛さんとお食事をご一緒したのはその一度きりでした。ドラマも2002年で区切りがついてから小髙の看病に専念しましたので、その後に邦衛さんとお会いする機会は、残念ながらありませんでした。

邦衛さんがお亡くなりになってから早一年、お世話になったお礼の言葉を直接、伝えることはできませんでしたが、今回このような形で思い出を語ることができて、気持ちが少し楽になりました。気になっておりましたので、本当に良かったと思っております。この年齢になりますと、別れが多くなるのは仕方のないことですが、元気なうちに出逢った方々に感謝の気持ちをお伝えしていかなければならないと思っております。

日活を離れて気付いたこと

1963年に日活を離れてから、まず初めに松竹映画に出演しました。松竹とは、年に4本の映画に出演する契約を交わしておりましたが、その記念すべき第1作目は、「結婚の設計」(1963年公開)という岩下志麻さんとの共演作品でした。それまで私自身も60本を超える映画に出演しておりましたから、もちろん撮影現場には慣れておりました。役者の仕事、という面では日活であろうと松竹であろうと何ら変わるものではありません。また、共演した志麻さんとは同世代でしたし、聡明で気さくな方でしたから、とても気持ちよく仕事をさせていただいたのを覚えています。フリーになってからの初仕事でしたし、とても印象に残る作品のひとつでもありました。

ところで、日活と松竹の印象の違いはといえば、日活は「若さ溢れる雰囲気」であるのに対し、松竹は「大人の雰囲気」でした。所属している人たちの年齢層は両社ともそれほど変わらないものでしたが、松竹はとても落ち着いてみえたのです。おそらく、仕事とプライベートがきっちり分けられていたからではないでしょうか。例えば、松竹では撮影後の休憩や食事を共演者同士が一緒に過ごすことは滅多にありませんでした。これに対し、日活は仕事もプライベートも一緒に楽しくワイワイやっていたものです。上下関係も厳しくなく、主役も脇役もスタッフも一緒になって楽しんでおりました。言ってみたら、学生のノリみたいな感じです。どちらがいいとか悪いとかではなく、雰囲気の違いにとても驚いたのを覚えています。いわばカルチャーショックでした。

おそらく、作品の違いにもその傾向は現れていたように思われます。例えば、日活は漫画のようなアクション映画のシリーズものや喜劇が多かったのに対し、松竹は原作ものが中心でした。私自身、原作もののシリアスな作品にもっと出逢いたいという思いが強くありましたので、松竹映画に出演することは願ってもないことでした。そして、今振り返ってみても、日活を離れることは役者としての幅を広げるために必要な経験でした。カルチャーショックを乗り越えるのは容易ではありませんでしたが、役者としてのみならず、自分自身の成長にも必要な過程だったと思います。

当時の日本は今とは違い、年功序列で終身雇用が当たり前の時代でした。一旦就職すれば、道筋はつけられていたものです。しかし、役者の世界では五社協定はあったものの、いわゆるサラリーマンのような縛りはありません。常に個人の能力が問われましたし、役者としての成長は如何に経験を積んでいくかに係っていました。そして実力がなければ、使ってはもらえません。役者は映画やドラマに不可欠ですが、自ら制作に関わる以外は受け身です。声が掛からなければ、出演機会は得られないシビアな世界なのです。日活にいた頃は、そのような心配はほぼ無用でしたが、フリーになってからは現実の厳しさを思い知ることになりました。

それにしても、日活での経験は私自身を支えるものでした。日活俳優の価値がどの程度のものなのか、周囲も私の力量を測っていたように思います。実際、日活の明るく楽しい雰囲気の中で自然と培われてきたものは揺るぎなく、新しい世界への挑戦に自信と勇気を与えるものでした。このことは、日活を離れてから初めて実感できたことです。そして、何より小髙の存在が私をより一層、自由に羽ばたかせてくれておりました。そばに俳優の実力者が居るというだけで、精神的な余裕をもたらしてくれていたのです。

次回は、田中邦衛さんについてお話しします。

フリーになるまでの道のり

日活を離れることを決意してから1年以上かかって、ようやくフリーになりました。しかし、その道のりは決して容易いものではありませんでした。なぜなら、五社協定が目の前に立ちはだかっていたからです。それは、1953年に当時の日本の大手映画会社が、専属の監督や俳優に関して取り決めた約束事でした。具体的には、引き抜きや貸し出しを禁止する内容です。当然、生え抜きの私については、俳優をやめる以外に日活を離れるのは困難なことでした。もちろん、私より以前に日活を離れた先輩方もおられましたが、どなたも公然とはなし得ませんでした。ですから私も、煙を撒くようにいつの間にか消えてしまうような辞め方をしなければならなかったのです。

ところで、日活の後半に差し掛かる頃から、マンネリ化に悩まされていたことは以前にお話しした通りですが、信頼できる限られた仲間の俳優には悩みを聞いてもらっていました。中でも、先輩の南田洋子さんには何かと親身に相談に乗っていただいたのを覚えています。そんなある日、南田さんのご主人である長門裕之さんから、後にマネージャーになる方をご紹介していただきました。小橋さんという女性の方で、長門夫妻が日活を離れた後に専属のマネージャー契約をされていた方でした。小橋さんは敏腕で、松竹にパイプをもっているとのこと。実際、長門夫妻が日活を離れる手筈もすべて小橋さんに整えてもらったと聞いて、私も全面的に委ねることにしたのです。ちなみに、長門夫妻は小橋さんとの契約を解除して「人間プロダクション」の設立準備をしているタイミングでした。渡に船ではありませんが、絶妙なタイミングでマネージャーをご紹介していただいたわけです。

1962年に入ってから、小橋さんと具体的な打ち合わせを重ねておりました。そこで、密かに松竹と年間4本の映画出演の契約を取り付けたのです。ただし、これは明らかに五社協定違反になるため、一切の宣伝は行わないという前提条件がつきました。この契約は、これまで大変お世話になった日活に対して顔向けができないものですので、内密にしておかなければなりません。もちろん、松竹は承知の上です。そして、実際に日活を離れるまではとても慎重に行動しなければなりませんでした。全ての手続きを小橋さんに委ねていたので、彼女が日活と具体的にどのような話し合いをしてきたのかは聞いておりませんでしたが、決着するまでは私以上に、恐らく彼女自身が一番、緊張していたに違いありません。

結局、日活に対してはきちっとしたけじめとしてのご挨拶もできずに、静かに去りました。後々、大きなトラブルにならなかったのは、私自身が日活の看板俳優までの地位ではなかったのと、小髙がその後も日活に残ってくれたお陰だと思っています。この回顧録を執筆しているときに、その事に気付かされました。私はまだ22,3歳で世間もよく知らず、全てお膳立てされたところでしか動くことができませんでしたから、その後の状況など考えたこともなかったのです。それにしても、自分は随分と恵まれた環境の中で生きてきたのだと思います。そして、小髙の支えがどれほど大きかったのかを改めて思い知りました。

今、こうして昔を振り返っておりますが、日活の時代があったからこその役者人生だと強く思います。状況が許さなかったとはいえ、日活を去る際にきちんと感謝の気持ちを伝えられなかったことが悔やまれました。だからこそ、今だからできる形で日活にご恩返しをしたい気持ちです。80歳を過ぎて記憶もかなり頼りないところではありますが、できるだけ思い出しながら写真と共に記録に残したいと思います。

次回は、フリーになって初めて気付かされたことについてお話しします。

恋人同士の共演「君恋し」の舞台裏

1962年に公開された「君恋し」は、小髙が主演俳優での唯一の共演映画でした。この作品に出演が決まった時は正直なところ嬉しさもありましたが、今までに感じたことのない緊張感も覚えていました。というのも、小髙と共演できる嬉しさの反面、交際していることに気づかれないよう十分な配慮も必要だったからです。加えて、この頃はすでに日活を辞めることを決意していて、密かに次の段階に進むための準備もしていました。ですから、この事も周囲に悟られないようにしなければなりませんでした。

実際、小髙とは事実上、同棲生活を送っていましたが、お互いに超多忙なこともあって、じっくりと膝を突き合わせて話をする時間はほとんどありませんでした。撮影はそれぞれ夜中であったり早朝であったりということで、すれ違いの生活だったのです。ですから、台本の読み合わせなどできませんでしたし、そもそもしようという気さえも起きませんでした。それよりも今後、日活をどのような形で辞めて次の段階へ進んで行けばよいのか、足りない頭を働かせておりました。

ところで、日活は石原裕次郎さんの怪我による長期の離脱や、赤木圭一郎さんの急逝などがあり、それまでの勢いに水が刺されたような状況でした。他方、日活は映画事業以外にもホテルやゴルフ場などの経営も行っておりましたが、役者である私たちの耳にもあまり良い情報は入ってきていませんでした。折りしも、娯楽の中心が映画から急速にテレビへと変遷していく中でしたから、映画の衰退が手に取るように見えていたのです。正直なところ、日活の経営に暗雲が立ち込めていたことは、その頃から既に肌で感じていました。また、映画制作の勢いが少しずつ衰えていると感じていたのも、私だけではなかったと思います。実際、荒唐無稽な無国籍映画など、人々に飽きられつつありました。でも、まだまだ表面的には日活も大きな路線変更を行ってはいなかったため、私の中で将来に対する不安は増すばかりだったのです。

一方で、映画の衰退を感じつつも、演じることの面白さがわかってきた頃でもありました。映画だけでなく、ドラマにも積極的に挑戦したいという意欲が湧いてきていたのです。プライベートにおいては、小髙との結婚が現実的になってきており、結婚するにあたり二人が同じ組織にいるのは都合が悪いのではないかとも考えていました。そのような事情により、日活を離れることに迷いはなかったのです。しかし、五社協定もあることから、とにかく穏便にどこにもご迷惑をかけずに静かに辞めることが求められておりました。

話は「君恋し」に戻りますが、小髙も私もそれぞれに他の仕事も抱えておりましたが、この映画の撮影はもちろん同じ現場になりますので、一緒に行動する事ができて楽な面もありました。普段はすれ違いでしたから、現場までのドライブが楽しかったのを覚えています。でも道すがら、お互いの演技について話し合うことはありませんでした。小髙は演技のベテランであっても、上から目線で意見を言う事は決してありませんでした。彼はお互いの仕事には干渉はしないし、自由であるべきだという姿勢だったのです。ですから、その後の進路についても、私の意思を尊重し応援してくれました。

お互いにこの共演が、日活でおそらく最後になるだろうということがわかっておりましたので、良い緊張感がありました。小髙も私も示し合わせた訳ではありませんが、「後世に遺しても恥ずかしくない、必ず良い作品に仕上げなければならない」という強い使命感を持って撮影に臨んだのです。このように「君恋し」は二人にとっての子供のような、とても大切にしたい宝物のような作品になりました。日活には、この作品をいただいたことを本当に心から感謝しています。

次回は、どのような手続きを経て日活を離れたのか、五社協定に絡めてお話しします。

トニーの命日に寄せて

トニーこと赤木圭一郎さんとの共演は、数えるほどでした。その中でも1960年に公開された「邪魔者は消せ」は、トニーが主演する作品での共演でしたので代表作といえるものです。当時はトニーも私も多忙でしたので、時間が惜しくNGを出してはいけないという一心で演技に臨んでいたのを覚えています。トニーファンの方からは「海辺のラブシーンはどんな感じだったのか」と、よく訊ねられますが、実際には寒いし、NGは出せないしで、浸れるほどの余裕はなかったのです。そんな裏話をしてしまうと、夢を壊してしまうかもしれませんね。あるいは、お互いに恋愛感情があれば、もっと良いシーンになっていたかもしれません。けれども、二人に期待されるようなものは何もなかったのです。

ところで、トニーとは自宅が近かったことから、彼と同居していたトシ坊(杉山俊夫さん)も含めて何かと3人で集う機会がありました。通勤も私の迎えの車で2人をピックアップすることもしばしばありましたし、タイミングが合えば3人で帰ることもありました。私たちは同世代ですし、仲の良い友達だったのです。自分で言うのもなんですが、私の性格はさっぱりとしていて、どちらかといえば男の子っぽい雰囲気でした。ですから、彼らは私と居ても気が楽だったのかもしれませんね。

ところで、その頃はすでに小髙と交際をしておりましたが、奇遇にも小髙の父とトニーのお父様とはとても親しい間柄でした。お二方は大学時代の学友で、共に歯科医だったのです。そんなことから何かとトニーのお父様のお話を伺う機会もありましたし、小髙も私もトニーとは身内のような感覚で接しておりました。ご実家にも伺ったことがありましたが、その時は美しいお姉様とお妹様もいらっしゃって、とても和やかで素敵な雰囲気でした。トニーの優雅な振る舞いや、照れ屋さんの少しはにかんだ笑顔の輝きは、この素晴らしい家庭環境の中で育まれたものに違いありません。

一方、トニーには独自のスタイルがありました。面白いことに、わざとセーターを裏返しに着てみたりするのです。あるいは、セーターをマフラーみたいにしてみたり、寒いのにわざわざ靴の踵を踏んづけて、スリッパみたいに履いてみたり…。そういえば、赤い色のセーターをよく着ていたのを覚えています。当時は、今みたいに何でもありの時代ではありませんでしたから、彼の独特なスタイルすべてがとても斬新に見えました。おそらく、他の人が同じようなことをしても格好良くは見えなかったでしょうね。スターになる人は、やはり持っているものがどこか人とは違うのです。

もしも、トニーが生きていたらその後の映画界はどうなっていただろうか、と考えることがあります。もしかすると、日活はそこまでテレビに圧されることなく、勢いも衰えなかったのかもしれません。なにしろ日活には、裕ちゃんとトニーの二大スターが在籍しているのですから。そうなれば、私はもう少し長く日活にお世話になっていたのかもしれません。考えるほどに、ファンはもちろんのこと、俳優仲間も皆が注目し、今後が期待されていた人は当時、トニーを置いて他にはいなかったのではないでしょうか。

それにしても61年前の2月14日の事は、決して忘れることができません。トニーの乗ったゴーカートが、撮影所の扉に激突した時の衝撃音は、今でも生々しく耳に残っています。その時、わたしは撮影所の2階の控え室におりました。もの凄い音がしたので、2階のベランダから見下ろしたところ、事故現場に一斉に人が押し寄せているところでした。何が起こったのか、その時は全くわかりませんでした。しかし、すぐさま「トニーがぶつかった!」などという怒号が聞こえてきて初めて、トニーが事故に遭ったのだとわかったのです。

その一週間後、トニーはこの世を去りました。あまりにも突然で、にわかに信じることができませんでした。葬儀に一緒に参列した芦川いづみさんと私は、ショックと悲しみで涙が止まりませんでした。そんな悲嘆に暮れる中、トニーのお母様が気丈にも「人間は一度は死ぬのですから、そんなに悲しまないでくださいね」と、涙も見せずに優しく私たちを諭してくださったのがとても強く印象に残っています。愛息を亡くされて一番お辛いはずなのに…。私たちに前を向いてほしい、という強い願いが込められていたのだと思います。その日は、私たちの悲しみに濡れた暗い気持ちとは正反対に、青空が眩しいくらいの晴天でした。きっと、トニーも天上から、あの、はにかんだ笑顔で私たちを見つめ、励ましてくれていたのかもしれません。

トニー、たくさんの思い出をありがとう。あなたの笑顔は、61年も経った今でも、私たちの思い出の中に色鮮やかに生き続けているのです。

世田谷の自宅へ(1961〜1977)

世田谷の桜3丁目に、小髙の自宅がありました。1961年に、青山恭二さんのご実家が経営する不動産屋さんから購入した新築の建売住宅です。それ以前は世田谷代田のアパートに住んでいましたが、結婚の可能性も考えて一戸建てに住み替えをしたものです。私はといえば、初台のアパートをそのままにして、事実上、同棲生活を送っていました。本来は入籍を先にすべきところですが、当時はとても許されない状況でしたので、事前に小髙と両親を引き合わせて結婚を前提とすることで、了承を得ておりました。

さて、引っ越しをしたのは小髙が「アラブの嵐」(1961)の撮影が終了した後でしたので、お互いにとても多忙な時期でした。同棲といっても初台のアパートと行ったり来たりでしたし、2人でいる時間も限られていましたので、当初は今でいうシェアハウスのような感じでしょうか。小髙は役者仲間を自宅に招いて、よく麻雀をしていたようです。とにかく面倒見の良い人でしたから、撮影でご一緒した方々がよく出入りしていました。家政婦もおりましたので、小髙と私が不在にしていても勝手に来られて寛ぐ方もおられたくらいに、役者仲間が気楽に立ち寄れる憩いの場でした。旧大蔵撮影所からも近かったですし、とても便利な場所だったのです。

1963年に日活を離れた後、初台のアパートを完全に引き払い、本格的に小髙と同居生活に入りました。私たちの関係は仲間内では知られておりましたが、まだまだ公にはできませんでした。しかし、時が経てば薄々、周囲も気づき始めるものです。そんなある日、世田谷の自宅周辺に記者が張り込んでいたことがありました。私たちに気づかれないように、中を伺っていたのです。その時、小髙は敢えて記者たちに声を掛けて自宅に呼びました。そして、丁寧にお茶を出し、何も隠す事なく成り行きを説明して、穏やかにお引き取りいただきました。記者の方も仕事ですから、立場を理解した上での対応だったのです。それから間もなく記事になり、わたしたちの関係は公のものとなりました。もちろん、憶測で悪く書かれることはありませんでしたので、「小髙の作戦勝ちだったかな」といったところです。

次回は、赤木圭一郎さんについてお話しします。

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