ハワイ旅行と突然の挙式

1981年4月12日、ハワイのホノルルにあるマキキ聖城基督教会にて、小髙と私の挙式が執り行われました。入籍してから実に12年後のことです。当時、偶然居合わせた日本人観光客の方たちにも飛び入りで参列をしていただき、ささやかながら心温まる挙式となりました。今振り返ってみても、とても幸せに満ち溢れたものでしたが、実は全く想定外の出来事だったのです。というのもこの挙式が実現したのは、長門裕之さんと南田洋子さん夫妻の計らいでハワイ旅行のついでに行われたものだったからです。それだけに驚きと感動で一生、忘れることのできないものになりました。

そもそもこのハワイ旅行は、晃夫ちゃん(長門裕之さんの本名)夫妻のハワイでのコマーシャル撮影が予定されていた折に、一緒に行かないかとお誘いを受けたものでした。その頃、小髙の体調は思わしくなかったのですが、ひょっとしたらハワイの温暖な気候で少しは良くなるのではないかと夫妻が気にかけてくださったのです。小髙は体力的に自信がなかったのでギリギリまで行くのを躊躇していましたが、それでもお言葉に甘えて思い切ってご一緒することにしました。私にとっては生まれて初めてのハワイ旅行でしたが、楽しみの反面、小髙の体が保つのか心配で仕方がありませんでした。

さて、当時は日本の景気も上り坂で沢山の日本人がハワイへ観光に来ていた時代でした。温暖な気候と美しい自然が魅力のハワイですが、ホテルのバルコニーから目の前に広がる海を見た瞬間、小髙も私も思わず歓声を上げました。お天気も良く湿気が少ないので空気が軽くて気持ちがいいし、葉山で毎日眺めている穏やかな海は小ぢんまりとした箱庭のようでしたが、ハワイの海は壮大でスケールがまるで違うものでした。健康の不安も一気に吹き飛んだ感じで、飛行機の中では具合悪そうにしていた夫の表情が、笑顔と共にみるみる明るくなっていったのを覚えています。

ところで、ハワイに着いた翌日のこと、思い掛けず洋子さんがホテルの部屋に真っ白な衣装を届けてくれました。それは伝統的なハワイの婚礼用の衣装で、袖に大きなレースがあしらわれた上着と、男女ともにスラックスを組み合わせたセットアップでした。実は、行きの飛行機の中で晃夫ちゃんから挙式をしたかどうか、さらりと質問を受けていました。イタリアで行う予定がキャンセルになって以来、実現していませんでしたが、晃夫ちゃん夫妻の粋な計らいで私たちはとうとうハワイで挙式をすることになったのです。式場の手配から衣装のこと、おまけにコマーシャルの撮影隊も一緒に来ていたので、都合よく結髪さんの果てまで全て手配してくれました。そうそう、ギリギリまで指輪の準備をしていなくて、晃夫ちゃんと小髙が慌てて指輪を調達してくれました。それは決して高価な物ではないのですが、薔薇の花をあしらった珊瑚の指輪で、今でも大事な私の宝物です。

ようやく実現した挙式でしたが、それまで半ば諦めていたものですから感激もひとしおでした。ウェディングドレスではなくパンツスタイルというのも、自分のキャラクターに似合っていたように思います。入籍してから12年目で私たち夫婦も地に足が付いたものでしたが、気持ちも新たに身が引き締まる思いがしたのを覚えています。あれから41年…今から思えばちょうど折り返しの時点でした。振り返れば小髙も6年前に身罷りましたし、本当に色々な事がありました。たかが挙式、されど挙式ではありませんが、夫婦としてのけじめが付けられた事は、その後の私たちの人生にとって大いなる意義がありました。なにしろ、最後まで添い遂げる事ができて、私も第二の人生を胸を張って生きていけるのですから…。

次回は、ドラマ「北の国から」についてお話しする予定です。

フリーになるまでの道のり

日活を離れることを決意してから1年以上かかって、ようやくフリーになりました。しかし、その道のりは決して容易いものではありませんでした。なぜなら、五社協定が目の前に立ちはだかっていたからです。それは、1953年に当時の日本の大手映画会社が、専属の監督や俳優に関して取り決めた約束事でした。具体的には、引き抜きや貸し出しを禁止する内容です。当然、生え抜きの私については、俳優をやめる以外に日活を離れるのは困難なことでした。もちろん、私より以前に日活を離れた先輩方もおられましたが、どなたも公然とはなし得ませんでした。ですから私も、煙を撒くようにいつの間にか消えてしまうような辞め方をしなければならなかったのです。

ところで、日活の後半に差し掛かる頃から、マンネリ化に悩まされていたことは以前にお話しした通りですが、信頼できる限られた仲間の俳優には悩みを聞いてもらっていました。中でも、先輩の南田洋子さんには何かと親身に相談に乗っていただいたのを覚えています。そんなある日、南田さんのご主人である長門裕之さんから、後にマネージャーになる方をご紹介していただきました。小橋さんという女性の方で、長門夫妻が日活を離れた後に専属のマネージャー契約をされていた方でした。小橋さんは敏腕で、松竹にパイプをもっているとのこと。実際、長門夫妻が日活を離れる手筈もすべて小橋さんに整えてもらったと聞いて、私も全面的に委ねることにしたのです。ちなみに、長門夫妻は小橋さんとの契約を解除して「人間プロダクション」の設立準備をしているタイミングでした。渡に船ではありませんが、絶妙なタイミングでマネージャーをご紹介していただいたわけです。

1962年に入ってから、小橋さんと具体的な打ち合わせを重ねておりました。そこで、密かに松竹と年間4本の映画出演の契約を取り付けたのです。ただし、これは明らかに五社協定違反になるため、一切の宣伝は行わないという前提条件がつきました。この契約は、これまで大変お世話になった日活に対して顔向けができないものですので、内密にしておかなければなりません。もちろん、松竹は承知の上です。そして、実際に日活を離れるまではとても慎重に行動しなければなりませんでした。全ての手続きを小橋さんに委ねていたので、彼女が日活と具体的にどのような話し合いをしてきたのかは聞いておりませんでしたが、決着するまでは私以上に、恐らく彼女自身が一番、緊張していたに違いありません。

結局、日活に対してはきちっとしたけじめとしてのご挨拶もできずに、静かに去りました。後々、大きなトラブルにならなかったのは、私自身が日活の看板俳優までの地位ではなかったのと、小髙がその後も日活に残ってくれたお陰だと思っています。この回顧録を執筆しているときに、その事に気付かされました。私はまだ22,3歳で世間もよく知らず、全てお膳立てされたところでしか動くことができませんでしたから、その後の状況など考えたこともなかったのです。それにしても、自分は随分と恵まれた環境の中で生きてきたのだと思います。そして、小髙の支えがどれほど大きかったのかを改めて思い知りました。

今、こうして昔を振り返っておりますが、日活の時代があったからこその役者人生だと強く思います。状況が許さなかったとはいえ、日活を去る際にきちんと感謝の気持ちを伝えられなかったことが悔やまれました。だからこそ、今だからできる形で日活にご恩返しをしたい気持ちです。80歳を過ぎて記憶もかなり頼りないところではありますが、できるだけ思い出しながら写真と共に記録に残したいと思います。

次回は、フリーになって初めて気付かされたことについてお話しします。

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