ヒデ坊との思い出

ヒデ坊こと和田浩治さんが亡くなってもう36年も経つのですね。月日の流れの早さを感じます。最後に会ったのはいつだったかはっきりと覚えていませんが、ヒデ坊はすでにご結婚されていましたから私も葉山に住んでいた頃だったでしょうか。雑誌か何かの取材で、場所は確か新宿の喫茶店だったと記憶しています。お互いにとても懐かしく、別れ際に「元気でね!また会おうね!」と、どちらともなく言ったのを覚えています。まさか、それが最後になるとは夢にも思いませんでした。

ヒデ坊と最初に出会ったのは「無言の乱斗」(1959)で共演した時でした。まだ16歳という若さでしたから、やんちゃな少年という印象でした。実際、ロケーション先の旅館で、同年代の役者と一緒になってふざけてドタバタと廊下を走って、スタッフに怒られていました。またある時は、私のお弁当に好みのおかずを見つけて「これちょうだい!」と言い終わる前にお箸で摘んで持っていったりと、子供っぽくて苦笑することもしばしばありました。実の弟と同じ4歳年下でしたから、姉に甘えるような態度があっても大目に見てきたものです。

それでも演技に入ると真剣そのもので、とにかく一生懸命に頑張っているのがわかりましたから、どうしても憎めなかったですね。それに今思えば、相当なプレッシャーの中だったのではないでしょうか。裕ちゃんにどことなく風貌が似ているということで、日活としては第二の石原裕次郎として育てたい思いが強かったはずです。それを証拠にダイヤモンドラインのメンバーにも選ばれましたし、自分よりも年上の大先輩の中に囲まれていたら、背伸びもしたくなったことでしょうね。コンビを組んで15作品ほど共演しましたが、後半に入ると随分と大人びて落ち着いてきたのがわかりました。

ヒデ坊については以前にも書いたことがありましたが、私が日活を離れてからどのように活躍してきたのかはほとんど知りませんでした。その後、日活も衰退してヒデ坊もフリーになってからは、東映などの時代劇で活躍しているという話が耳に入ってきて、ホッとしたのを覚えています。あの若かった弟のようなヒデ坊も、役者として生きる道を見つけて頑張っているなと思っていた矢先に、訃報が届いたのです。まだ42歳、役者として脂が乗ってこれからという時に無念だったに違いありません。とても驚きましたし、悲しかったですね。

ヒデ坊との共演は、日活時代の中で最もボリュームがありました。そして、何といっても唯一のコンビでしたから、決して忘れることはできません。ヒデ坊との共演の中で、私自身も役者として大いに成長することができたことをとても感謝しています。今、私ができることは、ヒデ坊が活躍した記録を改めて日活ファンに紹介して振り返ることです。Instagramのフォロワーの方々とのコメントのやり取りの中で、ヒデ坊の魅力を伝えていくことが、今の私ができる恩返しなのかなと思っています。

ヒデ坊、あまりにも早い旅立ちに驚きと悲しさでいっぱいでした。ヒデ坊とコンビを組んだ数々の作品は、私の日活時代を語る時に欠かせない愛おしいものばかりです。本当にありがとう…。

次回は石原裕次郎さんについてお話しする予定です。

日活時代を振り返って(後編)

1961年といえば、忙しさのピークと言ってもよい頃でした。日活も全盛期でしたから、仕事は次から次へとこなさなければならない状況にありました。日本も復興へと大きく前進した時期と重なりますから、映画も人々に夢と希望を与えるようなものが多かったのです。実際、娯楽中心の無国籍映画に出ていると、現実の世界とも違う何か不思議な感覚に囚われることがありました。映画を観ていると、その世界に居るような錯覚に陥る方も多いと思いますが、演じる側もその世界に入ってしまうものなのです。もっとも、仕事が終われば現実の世界ですから、切り替えをしなければなりません。でも、それは私にとって、難しいことではありませんでした。

正直なところ、ヒデ坊とのシリーズものの撮影が続く中で、徐々にマンネリを感じていました。毎回パターンは違うものの、荒唐無稽な内容が続くと、自分は役者として、何を目指していけば良いのか分からなくなっていたのです。そんな中、SPなどで、小沢昭一さんをはじめとする喜劇役者さんとの共演は、新鮮で楽しく、大いにリフレッシュしたのを覚えています。一方、「機動捜査班 暴力」(1961)という作品に代表されるような、社会的な問題作に出演した時は、役作りにより一層、力が入りました。この作品で共演した父親役の菅井一郎さんからも、大変多くのことを学ばせていただきました。

ところで、ヒデ坊との共演作品の中でも「峠を渡る若い風」(1961)は、鈴木清順監督の作品ですが、それまでの荒唐無稽な映画とは一線を画したものでした。清順監督も作品に熱が入っていて、役作りに対する助言は、心に突き刺さるものばかりでした。殊に、基本に立ち返るべき助言は、それからの役作りに大いに役立ったのを覚えています。更には、この映画への出演は、その後の役者人生をどう歩むべきかについて、真摯に考えるきっかけにもなりました。

急速に時代が変化していく中で、自分自身はこのままでもよいのだろうかと、忙しいながらも常に頭を悩ませていました。女性としての幸せを掴みたい一方で、役者としての人生も全うしてみたいという思いが、沸々と湧いてきたのです。「もっと演技がしてみたい」という意欲が高まり、映画からドラマへと興味が移り始めたのも、ちょうどこの頃です。同時に、小髙雄二との結婚についても、いよいよ現実味を帯びてきていました。振り返ってみても、日活時代の後半は、人生の大きな岐路に立たされていたのです。

次回は、川地民夫さんについてお話しします。

日活時代を振り返って(前編)

自宅に保管している64冊の台本を眺めながら、当時のことを思い出していました。デビューは1957年の「月下の若武者」ですが、訳も分からず言われた通りに動いて、たった一言の台詞を言うのにも精一杯でした。それから、徐々にモデルの仕事で多忙になり、演技の勉強をする時間も思うように与えられない中、見様見真似でなんとかやりこなしていたのを思い出しました。それでも、清水マリ子としてデビューしてからは、まだまだ映画の出演も数えるほどでした。

ところで、石原裕次郎さんとご一緒した1958年の「赤い波止場」への出演が、役者としての覚悟を持ち、演技とは何かを考えさせられるきっかけになった事は、すでにお話した通りです。この映画をきっかけに、私自身も役者としての自覚が芽生えたのと同時に、日活も積極的に登用し始めた事を覚えています。芸名が「清水まゆみ」に改められたのも、ちょうどその頃です。それを証拠に、1959年から1962年までの間に出演した台本の数は、47冊もありました。

その47本の映画の内、15本は和田浩治さんとの共演になります。手元に残っているスチール写真のほとんどが、ヒデ坊と共演したものですから、いかに共演数が多かったのかを物語っています。おそらく日活では、ヒデ坊を第二の石原裕次郎として育てたいということで、シリーズものを作って売り出したのではないでしょうか。今思えば、ちょうどそのタイミングで、私も積極的に登用され始めていましたので、都合よくコンビとして成立したのではないかと思っています。

当時の娯楽の中心は間違いなく映画でしたから、まずは面白さが要求されていました。更に、人々がワクワクするようなものであること、キラキラしていて羨むようなものであることが求められていました。ですから、日活の無国籍映画がもてはやされたのでしょうね。御多分に洩れず、ヒデ坊とのシリーズものは、荒唐無稽で漫画的な内容のものが多かったように思います。

睡眠時間も限られ、忙しく仕事をしている日常を送る中で「自分自身は何者なのか?」と、思い始めたのは1961年頃でしたでしょうか。自分は果たしてこのままでよいのだろうかと、疑問を抱き始めるようになったのです。

(後編に続きます)

「無言の乱斗」から始まった和田浩治さんとの共演

和田浩治さんとの共演は、1959年の「無言の乱斗」から始まって、1962年まで続きました。改めて保管している台本を数えたところ、計20本にもなりました。私が日活を離れたのが1963年でしたが、それまでにSPも含めて70本ほどの作品に出演しておりましたので、ヒデ坊とは3割近い作品を共演したことになります。

ところで、和田浩治さんの本名は和田愷夫(ひでお)さんなので、仲間内ではヒデ坊と呼んでいました。ヒデ坊は、石原裕次郎さんの風貌に何処となく似ているということで、スカウトされたそうです。裕ちゃんといえば、推しも推されもせぬ看板俳優でしたから、日活としては第二の裕次郎を育てたかったのかもしれません。シリーズものを作りたいという会社の方針によって、ヒデ坊のデビュー作「無言の乱斗」から相手役に選ばれました。

ところで、「無言の乱斗」での初めての撮影シーンは、確かラブシーンのような2人だけの設定だったと記憶しています。演技経験に乏しいヒデ坊には酷だなと思ったと同時に、私がリードしなければならないという使命感に駆られたのを覚えています。ヒデ坊は実の弟と同じ4歳年下でしたから、出会った時から弟のような存在でした。私自身も役者経験がゼロからの出発でしたので、デビュー作に挑むヒデ坊の心境は痛いほどわかっていました。それで、姉のような包容力をもって、演技に臨んだのです。

ヒデ坊との共演作の全てを通じて、役者の先輩としてのプライドを持って、演技に取り組みました。この経験が、役者としての幅を拡げるきっかけのひとつになったのではないかと思います。そして、最も印象に残る共演作となったのが、鈴木清順監督がメガホンをとった「峠を渡る若い風」(1961)です。この作品との出合いによって、演じる事の意味を改めて考えさせられ、意欲が大いに掻き立てられたのを覚えています。更なる高みを目指したいという、役者としての野心を抱くきっかけとなったのです。それは同時に、日活を離れる事を考える契機にもなりました。そしてとうとう、「俺に賭けた奴ら」(1962)がヒデ坊との最後の共演になり、その後まもなく退職するに至りました。今、改めて振り返ってみると、このタイミングで日活を離れた事は、シリーズものを共演していたヒデ坊には気の毒な事だったかもしれません。とても申し訳なかったけれど、当時は必死に前だけを見ていました。

次回も日活のエピソードが続きます。

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