洋上での最後の午餐

裕ちゃんこと石原裕次郎さんが亡くなる前の年の11月頃だったでしょうか。昼下がりに小髙と愛犬のムルソーを連れて葉山の海岸を散歩していた時、沖に派手なヨットが停泊しているのに気が付きました。確か龍が描かれたと思いますが、赤と黒のド派手なヨットは裕ちゃんのものに間違いありません。私たちは近所で親しくしている貸ボート屋の通称ピンちゃんのところに急いで行って、ムルソーを預かってもらい、手漕ぎボートを一艘借りました。ちなみにそのボートは最近、皇太子殿下に貸し出ししたばかりの新しいものとのこと。裕ちゃんの船のところに行くなら良いボートに乗って行ってほしいと、ピンちゃんも気を利かせてくれたのです。

小髙がボートを漕いで裕ちゃんのヨットに近づいたところ、クルーの一人が気付いてくれたので、私たちは大きく手を振りました。その時、裕ちゃんは背を向けてデッキに座っていましたが、クルーの呼びかけに応えて慌ててこちらに振り向き、驚いた表情から相好を崩して大きく手を振りながら「尊ちゃん!マリちゃん!これは神様の思し召しだね!!」と叫んだのです。まさかここで会えるなんて思ってもみなかったからでしょうけど…神様の思し召しだなんて、内心は大袈裟だなと思うよりも少しドキっとしていました。後から聞けば、小髙も同じように感じていたそうです。私たちは寂しいような、何かもう会えないような嫌な予感がしていました。

ところで、裕ちゃんと小髙は1958年公開の「陽のあたる坂道」で共演したのをきっかけに、親交を深めていました。小髙にとっては日活でのデビュー作でしたが、既に俳優座で舞台俳優として活躍していましたから、役者として裕ちゃんよりもキャリアはずっと長かったのです。また、小髙は役作りについては誰よりも拘りの強い人でしたから役者としてのプライドも高く、裕ちゃんも一目置く存在だったようです。年齢も一つ違いでしたから、私からみると「陽のあたる坂道」同様に二人は兄弟のような関係にも見えました。あるいは、お互いに真摯に向き合えるような真の友人関係だったといってもいいかもしれません。

役作りの話といえば、小髙が主演した1959年公開の「網走番外地」を参考にしたいと、裕ちゃんは単独で撮影所の試写室に行って熱心に観て研究していたこともあったそうです。因みにこの作品は、小高自身も相当に力を入れていたものでした。裕ちゃんは押しも押されもせぬ大スターでしたが、忙しい中にあっても影でどれほど努力をしていたものかと思います。また、役作りに関しては何かと小髙に客観的な意見を求めていたそうです。思い起こせば、小髙が本格的に療養生活に入る前までは、裕ちゃんと二人でよく飲みに行って深酒をすることもしばしばありました。彼らがまだまだ元気に活躍していた20代の頃ですが、一晩でお銚子を52本も空けたことがあったそうです。

ヨットでの話に戻りますが、裕ちゃんと小髙が会うのは本当に久しぶりのことでした。晩年はお互いに病気になってしまった所為で、なかなか会う機会が作れなかったのです。二人は音楽や絵画など芸術の分野についても話が合うそうで、そばで見ていても彼らの会話は常に弾んでいました。元々馬が合うのでしょうね。若い頃からお互いのことを理解し合っていましたから、会わない期間が長くても全く隔たりを感じていないようでした。そしてヨットの上での会話は、専ら健康についての話題でした。まだ50代に入ったばかりでしたし、病気が憎かったでしょうね。やりたいこともたくさんあったはずです。裕ちゃんは先にハワイに行ってるから、後で合流してほしいと話していました。海が大好きな彼らにとって、常夏のハワイは療養の地としてうってつけの場所だと考えていたのでしょう。

「俺のナポリタンは美味いんだよ」と言って、裕ちゃんご自慢のナポリタンと赤ワインを振る舞ってくれました。本当は裕ちゃんがフライパンを振りたかったのでしょうけど、その時はそれも叶わず専属の料理人が作ってくれました。裕ちゃんはすでに深刻な病に侵されていたのがわかっていたので、長居はできないと思いながらも2時間以上も一緒に過ごしたでしょうか。11月ですから日も短く、かなり肌寒かったのを覚えています。洋上でのささやかな宴は、悲しくも私たちが会う最後のものとなってしまいました。名残惜しくヨットを離れましたが、裕ちゃんはずっと私たちに手を振り続けてくれました。「本当にさようなら、ありがとう…」と言っているような気がしてなりません。今、こうしてその時のことを思い出しても涙が出てきてしまいます。もうこの世に裕ちゃんも、尊ちゃんもいないのですね…。

あれから35年の歳月が流れました。当時を知る日活の仲間も少なくなり、時代の流れを感じざるを得ません。私にとって今なお心の拠りどころは、あの日活の黄金時代です。その日活時代に、そして私たち夫婦の人生に、より一層の彩りを添えてくれた裕ちゃん。本当にありがとうございました。出逢えたことに心から感謝しています。

地井武男さんとの思い出

地井ちゃんが亡くなってもう10年になるのですね。改めて月日の流れの早さを感じています。地井ちゃんとは「北の国から」で夫婦役を演じましたので、ドラマ開始から最終話まで約20年間ご一緒させていただきました。私のキャリアの中でも、長期にわたって夫婦役を演じたのは地井ちゃんだけでしたから、亡くなったと聞いた時は寂しさもひとしおでした。因みにドラマが開始されたのが1981年、最終話が2002年、地井ちゃんが亡くなったのが2012年、そして今年が2022年です。初めてお会いしてからもう41年なんですね。

地井ちゃんは一言で言えば、ひょうきんな人。とても明るくて話題も豊富でしたから、自然と周りの人たちを笑顔にさせてくれましたね。具体的には言えないけれど、自虐ネタもたくさんあって随分と笑わせてくれました。もともと役者を目指すきっかけになったのが、日活映画への憧れとか。特に裕ちゃんが好きだったみたいで、独特な歩き方のモノマネを披露してみんなの笑いを誘っていました。裕ちゃんだけでなく、旭さんや錠さんのモノマネもすごく上手かったですね。日活への憧れが過ぎて、夜中に撮影所にこっそり忍び込んで夜が明けるまで銀座のオープンセットに佇んでいたというエピソードを聞いた時に、役者になりたいという若き日の地井ちゃんの熱い想いが伝わってきたのを覚えています。

さて、ドラマの撮影は殆どが富良野でのロケーションでしたし、夫婦役でしたので行動を共にする機会も多くありました。定宿にしていた富良野プリンスホテルにはテニスコートがありましたので、撮影の合間に2人で硬式テニスを楽しんだこともありました。地井ちゃんは学生時代に軟式庭球をやっていたそうで、乱打をしながら「やっぱり軟式が一番だ」なんて言ってましたっけ。そうそう、状況に応じて私に対する呼び方も変えていました。大抵は「まゆみさん」って呼んでくれるのですが、調子に乗っている時は「まゆみ」と呼び捨てにされることも…私の方が年上なんですけれどね!あるいは改まって何か言いたい時には「清水さん」って呼ぶのです。そうやって人の懐に入ってくる方でしたから、本当に多くの人から愛されていたと思います。

ところで、「北の国から2002遺言」(2002年9月放映)では、私が癌で亡くなるシーンがありました。実は、リハーサルから地井ちゃんは本気で泣いていたのです。本番さながらの迫真の演技というよりは、撮影の前の年に亡くなられた奥様を思い出して感情移入してしまったのでしょうね。棺桶で寝ていて、もらい泣きしそうになるのを堪えるのに必死でした。とても気の毒で気の毒で…最愛の伴侶を亡くされて、まだ立ち直れていなかったとわかり、とても切ない気持ちになりました。そういえば富良野のロケーションでも、この当時はお酒をかなり飲んでましたね。寂しさを紛らせていたのかなと思います。

この撮影の10年後に地井ちゃんも帰らぬ人となりましたが、休業の折、追悼の言葉も述べることができないでおりました。今、こうして思い出をお話しする機会があって少し救われた気持ちです。地井ちゃんの笑顔、けっして忘れません。本当にたくさん笑わせてくれましたね。思い出すと少し泣けてきます。とても楽しい思い出ばかりです。ありがとうございました。

トニーの命日に寄せて

トニーこと赤木圭一郎さんとの共演は、数えるほどでした。その中でも1960年に公開された「邪魔者は消せ」は、トニーが主演する作品での共演でしたので代表作といえるものです。当時はトニーも私も多忙でしたので、時間が惜しくNGを出してはいけないという一心で演技に臨んでいたのを覚えています。トニーファンの方からは「海辺のラブシーンはどんな感じだったのか」と、よく訊ねられますが、実際には寒いし、NGは出せないしで、浸れるほどの余裕はなかったのです。そんな裏話をしてしまうと、夢を壊してしまうかもしれませんね。あるいは、お互いに恋愛感情があれば、もっと良いシーンになっていたかもしれません。けれども、二人に期待されるようなものは何もなかったのです。

ところで、トニーとは自宅が近かったことから、彼と同居していたトシ坊(杉山俊夫さん)も含めて何かと3人で集う機会がありました。通勤も私の迎えの車で2人をピックアップすることもしばしばありましたし、タイミングが合えば3人で帰ることもありました。私たちは同世代ですし、仲の良い友達だったのです。自分で言うのもなんですが、私の性格はさっぱりとしていて、どちらかといえば男の子っぽい雰囲気でした。ですから、彼らは私と居ても気が楽だったのかもしれませんね。

ところで、その頃はすでに小髙と交際をしておりましたが、奇遇にも小髙の父とトニーのお父様とはとても親しい間柄でした。お二方は大学時代の学友で、共に歯科医だったのです。そんなことから何かとトニーのお父様のお話を伺う機会もありましたし、小髙も私もトニーとは身内のような感覚で接しておりました。ご実家にも伺ったことがありましたが、その時は美しいお姉様とお妹様もいらっしゃって、とても和やかで素敵な雰囲気でした。トニーの優雅な振る舞いや、照れ屋さんの少しはにかんだ笑顔の輝きは、この素晴らしい家庭環境の中で育まれたものに違いありません。

一方、トニーには独自のスタイルがありました。面白いことに、わざとセーターを裏返しに着てみたりするのです。あるいは、セーターをマフラーみたいにしてみたり、寒いのにわざわざ靴の踵を踏んづけて、スリッパみたいに履いてみたり…。そういえば、赤い色のセーターをよく着ていたのを覚えています。当時は、今みたいに何でもありの時代ではありませんでしたから、彼の独特なスタイルすべてがとても斬新に見えました。おそらく、他の人が同じようなことをしても格好良くは見えなかったでしょうね。スターになる人は、やはり持っているものがどこか人とは違うのです。

もしも、トニーが生きていたらその後の映画界はどうなっていただろうか、と考えることがあります。もしかすると、日活はそこまでテレビに圧されることなく、勢いも衰えなかったのかもしれません。なにしろ日活には、裕ちゃんとトニーの二大スターが在籍しているのですから。そうなれば、私はもう少し長く日活にお世話になっていたのかもしれません。考えるほどに、ファンはもちろんのこと、俳優仲間も皆が注目し、今後が期待されていた人は当時、トニーを置いて他にはいなかったのではないでしょうか。

それにしても61年前の2月14日の事は、決して忘れることができません。トニーの乗ったゴーカートが、撮影所の扉に激突した時の衝撃音は、今でも生々しく耳に残っています。その時、わたしは撮影所の2階の控え室におりました。もの凄い音がしたので、2階のベランダから見下ろしたところ、事故現場に一斉に人が押し寄せているところでした。何が起こったのか、その時は全くわかりませんでした。しかし、すぐさま「トニーがぶつかった!」などという怒号が聞こえてきて初めて、トニーが事故に遭ったのだとわかったのです。

その一週間後、トニーはこの世を去りました。あまりにも突然で、にわかに信じることができませんでした。葬儀に一緒に参列した芦川いづみさんと私は、ショックと悲しみで涙が止まりませんでした。そんな悲嘆に暮れる中、トニーのお母様が気丈にも「人間は一度は死ぬのですから、そんなに悲しまないでくださいね」と、涙も見せずに優しく私たちを諭してくださったのがとても強く印象に残っています。愛息を亡くされて一番お辛いはずなのに…。私たちに前を向いてほしい、という強い願いが込められていたのだと思います。その日は、私たちの悲しみに濡れた暗い気持ちとは正反対に、青空が眩しいくらいの晴天でした。きっと、トニーも天上から、あの、はにかんだ笑顔で私たちを見つめ、励ましてくれていたのかもしれません。

トニー、たくさんの思い出をありがとう。あなたの笑顔は、61年も経った今でも、私たちの思い出の中に色鮮やかに生き続けているのです。

多忙を極めた日活時代

週に2本のペースで映画が制作されていた時代でしたから、言葉では言い表せないほどの忙しさでした。主役級の俳優はもちろん、脇役の俳優陣もひっきりなしに仕事をこなしていた頃です。日活全体が、活気に満ち溢れていました。次から次へと台本が渡され、セリフを覚えなくてはなりません。演技経験がゼロからのスタートでしたので、とにかく周りに迷惑をかけられない思いで必死でした。絶対にNGは出したくなかったので、セリフは完璧に頭に叩き込んでいったものです。それに加えて、モデルの仕事もこなしていましたから、睡眠時間は1日平均だいたい2時間〜3時間くらいでしたでしょうか。日活の撮影所には宿泊スペースもありましたが、あまりよく眠れないので、できるだけ自宅に帰るようにしていました。

忙しさのあまり、撮影の合間に睡魔に襲われることも度々ありました。でもこんなことは、当時の日活では日常茶飯事です。俳優だけでなく、スタッフも睡眠不足でした。ある時、照明さんがライトの灯りでポカポカして眠気に誘われたのか、舞台裏から落っこちてしまった事がありました。最初は皆んな驚きましたが、当の本人が照れ笑いをしながら起き上がった途端、爆笑の渦に…。でも、こんな事は一度や二度の話ではなかったのです。当時のメンバーは、日活に携わっているだけでも嬉しかった時代でしたから、こんなハプニングにも寛容な雰囲気だったものです。監督、スタッフ、俳優すべての人たちが一体となって映画作りをしていました。

それから、何の映画だったか覚えていませんが、芦川いづみさんと共演した時のことです。2人でタクシーに乗っているシーンの撮影でした。車の中は撮影のライトでとても暖かくて心地よく、それはそれは眠気を誘うほどでした。いづみちゃんは私以上に引っ張りだこでしたから、疲労も溜まりに溜まっていたと思います。2人でタクシーのシートに座っていたら、眠たくなってお互いにもたれかかってしまうのです。そこで、眠りに落ちそうになったら、2人で太ももの肉を摘み合って、眠らないようにしていました。苦笑いしながら…。いづみちゃんは先輩ですが、盟友でもあります。お互いに日活を離れてからも交流を続けていて、今でも仲良くしていただいています。いづみちゃんとのエピソードはまた、別の機会にお話しします。

そうそう、この時期はいくら食べても太ることはありませんでした。お米が大好きで、お茶碗に3杯も食べていました。若かったこともありますが、それくらい食べないとやっていけないほどに忙しかったのです。

次回は、和田浩治さんとの共演についてお話しします。

修学旅行気分だった地方ロケ

映画によっては、撮影所だけでなく地方ロケに出かけることも少なくありませんでした。日帰りのこともあれば、泊りのこともありました。当時、日活には移動のためのバスが一台用意されていました。伊豆半島あたりですと、バスでだいたい4、5時間です。それより遠いところへは、電車で移動しました。ちなみに主役級の俳優は大抵、自家用車で目的地へ向かいました。機材や小道具、衣装などは専用のトラックで移動していました。

デビュー当初は、バスで移動する地方ロケがとても楽しみでした。当時の日活は若手の俳優が多かったので、移動中のバスの中はまるで修学旅行のような賑やかさでした。好きなおやつを持参して食べながら、時には当時の流行歌をみんなで合唱し、目的地に着くまで大いに盛り上がっていました。旅館に着いてからも、自然とみんながホールに集まり、当時はやりのツイストを踊って盛り上がり、バスの中の続きを楽しんでいたものです。17歳で北海道の田舎から上京しましたので、学生気分が抜けきらなかったこともありますが、地方ロケへの移動はワクワクしました。今でも懐かしく思い出します。

ところで当時、日活に役者として入社する方法は、大きく分けて3つありました。まずは日活の募集による採用、次に映画のオーディションに合格することによる採用、そして劇団などからの引き抜きによる移籍です。ちなみに夫の小髙は引き抜きによる移籍ですので、実力が買われての採用です。これに対して、私の場合は役者の経験がゼロからの採用でした。そこでお世話になったのが、劇団青年座です。デビュー当初は、映画に出るまでもなく、モデルの仕事も多くて忙しい毎日でしたので、期間はとても短いものでしたが、山岡久乃さんや初井言榮さんら大先輩に目をかけていただきました。青年座の役者は俳優座出身の方が多かったですし、日活映画にも数多く出演されていました。

話しは元に戻りますが、私が入社したころは、日活の募集でいえば4期と5期の間くらいです。日活の仲間は本当に仲が良くて、大部屋の出身だろうとスカウトだろうと分け隔てなくお付き合いしたものです。ですから、ロケバスの中でも大いに盛り上がりました。日活は、若い役者やスタッフのコミュニケーションがうまくとれていたからこそ、良い作品がたくさん生まれたのだと思います。日活の隆盛期に入社できたことは、役者としてとても幸運なことでした。

次回の投稿では、出世作と石原裕次郎さんについてお話しします。

夫、小髙雄二との出会い

夫である小髙雄二とは、日活で出会いました。彼はもともと俳優座5期生の劇団員でしたが、日活からの熱烈な誘いにより、1957年に移籍してきました。当時、日活撮影所の山崎所長が、1958年に公開された「陽の当たる坂道」で、小髙をどうしても登用したかったというのがその理由です。この映画の主演は石原裕次郎さんですが、裕ちゃんのお兄さん役として出演していました。実際、年齢も裕ちゃんの一つ上でしたが、私生活でも兄弟のように仲良くしていたのです。裕ちゃんとまこちゃん(北原三枝さん)と私たち夫婦は、仕事でもプライベートでも長年、交流をしてきましたが、その話はまた別の機会にすることにします。

ところで、初めて小髙と会ったのは、「知と愛の出発」(1958)で共演した時です。私はアルバイトの少女役で、セリフも一言、二言でした。ロケ現場はヨットハーバーで、彼と私はデッキにいました。駆け出しの頃でしたから、緊張が先だってしまって、余裕なんかありません。でもなぜだか、彼の指の美しさだけが脳裏に焼き付いていました。初めはただそれだけのことで、初心な私に恋愛感情が芽生えることはありませんでした。

一方、小髙はそれよりも少し前に、撮影所の演技課の廊下にある大きな鏡の前で、たまたま私を見かけることがあったそうです。野球帽をかぶった少年のような姿をした少女が、鏡の前で一生懸命にポーズをとっていたのが、とても愛らしく印象的だったとか。その時から、どうやら私の存在を意識して観察していたらしいのです。そんなある日、演技課で小髙の世話役だった森さんから連絡がありました。小髙が体調を崩し入院したので、どうしても見舞いに行ってほしいというのです。小髙は俳優座出身の大先輩ですから、断ることはできません。仕方なしに、恐る恐るお見舞いに行ったのを覚えています。

後から分かったことですが、彼は病弱であることを秘して仕事をしており、そのことを知っていたのは当時、森さんだけだったそうです。もしかしたら、彼は森さんだけには胸の内を明かしていたのかもしれません。きっかけがあれば、私との距離を縮めたいという思いがあったようなのです。 お見舞いをしてからというもの、小髙から積極的に連絡をもらう機会が増えて、徐々にお互いの距離が縮まりました。そして、ついに交際することになったのです。でも当時、スキャンダルはご法度でしたから、二人は密やかにデートをしなければなりません。携帯電話もない時代に、どのようにお付き合いしていたのでしょうか。この話は、次回に続きます。

モデルの仕事

オーディションに合格して日活に入社しましたが、演技の基礎もないゼロからのスタートでしたので、最初からそう易々と映画に出られるわけではありませんでした。「月下の若武者」ではセリフはたった一つだけでしたし、撮影に丸一日かかったものの、なんとか役割を果たせたようなものです。そしてもう一つ、私には演技ができるかどうかという以前に、北海道弁の訛りの問題がありました。そこで、標準語に慣れるまでの間、演技の勉強をしながらモデルの仕事をいただいておりました。

ところで、戦後は女性も進学する人が増えて、ほとんどが結婚するまでとはいえ、社会に進出する機会が増えつつある時代でした。その所為か、通勤や通学などでどのようなファッションが好ましいかなど、若い女性を中心としてファッションに対する意識が高まっていました。そんな中、女性誌が次々と刊行されていたのを覚えています。そのような時代の流れの中で、モデルとしての仕事の需要も多く、おかげさまで雑誌社などからたくさんのオファーをいただいておりました。当時は、電車で布田の撮影所まで通勤していましたが、撮影所の仕事が終われば、待機していた雑誌社の車で、撮影スタジオや撮影ロケの現場に向かうという毎日でした。洋服のモデルや、雑誌の表紙、あるいは取材を受けることもたくさんあって、目が眩むほど忙しくしていました。

また、モデルの仕事を通じて、日本の名だたるアーティストとの出会いがありました。今、振り返ってみても、とても贅沢ですし幸運なことです。例えば、写真家の第一人者であった秋山正太郎先生には、たくさんのポートレートを撮影していただきました。六本木にあった先生のスタジオへは、何度も通ったものです。それから、当時大人気だった中原淳一先生とも、多くの仕事をご一緒させていただきました。先生のアトリエでは、若い女性に人気のあった雑誌「ソレイユ」や「ひまわり」の撮影が行われておりましたので、アトリエに伺う機会も頻繁にありました。

このようにモデルの仕事を通じて、当時の最先端のファッションを知ることは、とても有意義でしたし、楽しいものでした。また、自分の身にまとうファッションが人々に影響を与えているのだと思うと、やりがいも十分に感じられました。その後、徐々に映画への出演機会が増えてきましたので、役者の仕事が中心になりましたが、できるだけモデルの仕事はしていきたいと考えていました。81歳になって活動を再開した現在でも、その気持ちは変わらないところです。

次回は、小髙雄二との出会いについてお話しします。

「青春の冒険」(1957)でのこと

この作品は、小林旭さんが主演の映画で、大人の世界にあこがれる高校生を描いたものです。デビューから間もない頃の出演で、その時の芸名は「清水マリ子」でした。ちなみに本名は鞠子ですが、鞠の字が複雑だったので、単純にカナに替えられたものです。のちに「まゆみ」になりましたが、そのお話はまた別の機会にすることにします。

さて、この作品では当時、同じ年ごろの役柄でしたから、等身大で演じることができました。デビュー作の「月下の若武者」とは違って、セリフも増えましたし、撮影所のみならず初めてのロケも経験して、気持ちも上がりました。ところが、ここではじめて役者としての壁にぶち当たるのです。実際は、壁だなんて大げさなものではなくて、今振り返れば微笑ましくも、お恥ずかしい話です。

それは、主役の小林旭さんに平手打ちをするシーンでのことでした。台本では、旭さんの頬を思い切り叩かなくてはなりません。でも、どうしても叩くことができないのです。だって、怖いでしょう?!デビュー前に、スクリーンで観ていた日活のスターが相手です。それに、それまで一度だって、人の頬を叩くなんてことはしたことが無かったのですから。何回も何回も挑戦して、それでもできなくて、とうとう泣けてきたのです。旭さんは「思いっきりやっていい!」と言ってくれたのですが、当時の私にはなかなか難しいことでした。

それでも役者として、ゼロからスタートしたばかりの頃でしたから、無理もなかったのかもしれません。結局、役に入りきれないから、平手打ちもできなかったのです。でもこの経験を通じて、役者としての覚悟が必要だということを、改めて思い知らされました。だからといって、覚悟がどれほどのものかを思い知ることになるのは、実はもう少し先のお話なのですが…。おかげさまで撮影は、周りのスタッフの温かな支えもあって、なんとか終了しました。旭さんは、ご承知のとおり背も高くて迫力のある役者さんです。それに、性格はとてもさっぱりしていて、撮影現場はいつも良い雰囲気でした。

そんなこんなで、周囲に支えられながら役者としての人生がスタートしました。しかし、まだまだ前途多難。この続きはまたの機会にお話しします。

デビュー作「月下の若武者」(1957年)

津川雅彦さんが主演する「月下の若武者」で、主役の相手役を募集するオーディションに合格したのが、デビューのきっかけでした。津川さんとは同じ年の早生まれ同士でしたし、主役はお殿様でしたから、てっきり、お姫様の役をいただけるものと思っていました。しかし、ふたを開けてみれば「遊女」の役だったのです。初めての映画出演で、お姫様の衣装に身をまとっている自分を想像していたものですから、ものすごくがっかりしたのを覚えています。

想定外だった遊女の役ですが、セリフはたったひとつ「不束者にございます」というもの…たったこれだけのために日活はオーディションを行ったのかと、少々戸惑いました。しかし、実際に出演してわかったのは、たったセリフひとつの撮影でも簡単ではなかったということです。映画のスクリーンでは、役者たちが演じている様が映し出されますが、観る側はその完成された映像が制作されるまでの過程を知ることはありません。布田の撮影所で行われた、たったワンシーンの撮影でしたが、準備から撮影までに丸一日を要しました。この映画は、映画界で初めて採用された「総天然色の日活スコープ」でしたので、スタッフの準備も実に入念なものでした。ライト、カメラ、小道具などの準備がすべて整うまで、現場はバタバタしていました。

田舎から出てきた少女は、なすがままにメイクをされて衣装を身にまとい、かつらをつけられて、所定の場所で長い時間、待機させられていました。初めてで訳が分からない中でしたが、見るものすべてが興味深いものでした。いざ、演じる段になってからも、ライトやカメラの調整が細かくされていたので、何テイク行われたのか、はっきりと覚えていません。緊張の中、ようやく撮影が終了して、重たい衣装やかつらを外した時の解放感は、今でもよく覚えています。映画の撮影は、たったワンシーンでも簡単ではないことを思い知らされました。

ところで、相手役だった津川さんとの共演は、この作品だけでした。津川さんも翌年には松竹に移籍され、その後フリーになられましたが、残念ながら接点はほとんどありませんでした。でも、この作品のお陰で役者の世界にはいることができましたから、津川さんとの出会いは私にとって特別なものです。一方、お兄様の長門裕之さんとは、日活の時代、そしてフリーになってからも交流がありました。長門さん夫妻との思い出は、また別の機会にお話ししたいと思います。

布田の日活撮影所

京王線の布田駅から徒歩約20分のところに、日活の撮影所がありました。デビュー当時は、最寄りの初台駅から京王線に乗って、通勤していました。電車を降りてからは、ずっとあぜ道です。あの頃は撮影所まで畑や田んぼが続いていて、道路も舗装はされておらず、悪路を歩いて通ったものです。撮影所は白亜の殿堂というには大げさかもしれませんが、当時としてはかまぼこ型のアーチが美しい、真っ白の斬新な建物でした。私がデビューした少し前に建設されたばかりで、当時としては日本最大級の規模を誇る撮影所でした。

撮影所に着いたらまず、演技課というところに行って、その日の仕事の確認をしなければなりません。当時は、監督ごとにチームに分けられていました。例えば、牛原組とか、西河組など、監督に組をつけて呼んでいたのです。撮影が行われるステージも第1~第10ステージまでありましたが、俳優やスタッフはその日、自分の組がどこのステージで仕事をするのかを、演技課の掲示板を見て確認していました。週に2本のペースで映画が作られていた時代ですから、それはそれは撮影所も賑わっていたものです。

ところで、当時の日活は新人発掘に力を入れていたこともあり、俳優も若手が中心でした。スタッフにも若い人が多く、撮影所は全体的に明るくて活気の溢れる雰囲気でした。撮影所で働くすべての人が、よりよい作品作りに前向きに取り組んでいました。その上、俳優もスタッフもみんな仲間という感じで、とても楽しく仕事をしていたのを覚えています。そんな明るく楽しい雰囲気の中でしたので、良い作品もたくさん生まれたのではないでしょうか。

そういえば、撮影所でのエピソードを一つ思い出しました。デビュー当時、京王線で通勤していた頃、布田駅から撮影所までのあぜ道にカエルがうじゃうじゃいたことがありました。避けながら歩かなければならないほどのカエルなので、都会の人には厄介だったかもしれませんが、田舎育ちの元気な少女にとってはヘッチャラです。ある日、歩きながらカエルを何匹か拾って、ポケットに忍ばせて撮影所に行ったことがありました。たまたま早朝で、演技課のスタッフはまだ誰も出勤していません。私はそぉーっと、デスクの引き出しにカエルを忍ばせて、物陰に隠れていました。スタッフたちのカエルに驚く様を見たくて…当時、まだまだ子供で完全に学生気分でした。私の仕業だと気づかれなかったはと思うのですが、この場を借りてお詫びします。それにしても、撮影所はこんな悪戯にも寛容な雰囲気だったのです。

次回は、初めて映画に出演した時のエピソードをお話しします。

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