日活の大入袋

当時、日活では映画の興行成績が良かった場合に、大入袋が配られました。それは、作品ごとに配られるものですが、その制作に関わっても関わらなくても、日活の俳優のみならずスタッフ全員に配られていました。戦後の日活は大盛況でしたので、年に何回も配られたものです。大抵は、大入袋に100円硬貨が一枚です。日活に入ったのが1957年でしたから、ちょうど日本で100円硬貨が発行された年だったと記憶しています。当時、映画の入場券が150円程度でしたから、100円の価値は今のだいたい10倍くらいでしょうか。

北海道の田舎からポッと出てきた、世間もよくわからない少女が銀幕デビューを果たしたわけです。あの頃は、目が眩むほどに忙しい毎日を送っていました。そんな中、自分が携わった作品で大入袋を手にした時の感動は、忘れられないものです。そして、その大入袋は役者としての自信を、大いに与えてくれるものでした。

ところで、たった一度だけ大入袋に大金が入っていたことがありました。実は記憶が曖昧で、残念ながら具体的な金額を覚えてはいないのですが、確か5が付いていたような気がします。ですから、500円なのか、何千500円なのか、あるいは5,000円なのか。その当時、制作スタッフの人たちが、上着と下着、それに靴まで揃うと大喜びしていたのを覚えています。ちなみに当時の新卒の初任給が1万円程度でしたから、5,000円ということはないかしら…いずれにしても日活の全社員に配られたとすれば、相当な金額になるはずです。それは、凄まじくヒットした作品に対するものだったに違いありません。そして、それは間違いなく石原裕次郎さんが主演した映画の大入袋でしょう。なぜなら、裕ちゃんが出演する作品は、どれもこれも大当たりだったのですから。

裕ちゃんは大先輩ですが、私にとってはお兄ちゃんみたいな存在でした。俳優としてはもちろん、人間的にも大変魅力のある方でした。優しくて、強くて、カッコ良い。実際、私に兄はおりませんが、こんな三拍子の揃ったお兄ちゃんがいたらいいのにと、ずっと思い描いていたような方でした。石原裕次郎さんの魅力については、また別の機会にお話しします。

戦後の映画産業

戦後の娯楽といえば、映画でした。それを証拠に、映画館は連日、大入りの満員どころか立ち見の人でぎゅうぎゅう詰めの状態でした。今も昔も娯楽の街といえば新宿ですが、戦後には今よりもたくさんの映画館がありました。劇場の中だけでなく前にも、常に人が溢れかえっていたものです。戦後の復興の中で、銀幕の世界が人々に夢や希望を与えていたのでしょう。そんな活気あふれる戦後の映画産業で、中心的な役割を担っていたのが、他ならぬ日活です。

その日活の花形スターといえば、筆頭は間違いなく石原裕次郎さんです。裕ちゃんは国民的な大スターでしたから、女性だけでなく、男性も憧れる存在でした。ある時、人で溢れる劇場の前を通ったところ、裕ちゃんの映画を見終わったばかりの人が、本人になりきってトレンチコートを着て、そっくりの歩き方をして劇場を後にしていました。それが、一人や二人ではないのです。その光景を見て、うれしくて、思わず微笑んでしまったのを覚えています。それは、裕ちゃんと同じ映画界にいて、人々に夢を与える仕事に携われることを、誇りに思える瞬間でもありました。

ところが、戦後の映画産業が活況だった時代は長くは続きませんでした。テレビの普及が進むにつれて、娯楽の中心が映画からテレビへと急速に変化していったからです。それは、まるで日本の復興のスピードについて行っているかのようでした。実際、私自身もテレビドラマへの出演意欲が湧いてきた頃と重なるところです。

1963年映画産業が斜陽になる少し前に、一足先にフリーになりました。5社協定もあり、なかなか難しいこともありましたが、そのお話はまた別の機会にしたいと思います。

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