追悼 中山英子様

ひぃちゃんこと中山英子さんは、私と50年以上苦楽を共にしたパートナーでした。彼女が二十歳を過ぎたくらいのタイミングで、世田谷の家の家政婦として来てくれたのがきっかけで、長きにわたり小髙と私を支えてくれました。世田谷では通いでしたが、葉山からは同居をして私たちのお世話をしてくれていたのです。葉山から千葉、そして今回、北海道までついて来てくれました。血縁関係は全くないのですが、親きょうだいよりも長く一緒に住んでおりましたので、家族以上の関係と言っても良いくらいです。

ところで、小髙は病弱で十代の頃からあまり長生きができないだろうと言われておりました。俳優座でも舞台での埃に耐えられず日活に籍を移しましたが、多忙と飲酒で更に体調を悪化させてしまい、終には俳優業も断念することになってしまったわけです。その間も余命宣告を受けておりましたが、結果的に長生きができたのは、私の献身というよりも寧ろひぃちゃんが漢方などの勉強をして、その時の体調に合った漢方と食事療法を実践してくれたお陰だと思っています。もちろん、自然の中に身を委ねた暮らしの中でしたからより一層、その効果も発揮されたのかもしれません。いずれにしても、彼女なくしては私たち夫婦もそれまで円満に健康的に暮らすことはできませんでした。

話は遡りますが、世田谷時代は小髙もまだまだ俳優として活躍しておりましたし、私も日活から離れて忙しくしておりましたので、身の回りの事など一切をひぃちゃんにお願いしておりました。また、小髙と私がそれぞれロケーションで家を空けることがあっても、彼女がしっかり留守番をしてくれましたので、私たちが居なくても俳優仲間が訪ねて来られたのです。大蔵の撮影所からも近くて便利な場所だったため、葉山良二さんなんかは撮影の合間にでも、私たちが留守にしていようがいまいが気軽に昼寝しに来ていました。「なにか食べるものない?」などと言って、ひぃちゃんにリクエストして作ってもらったりもしたそうです。

そんなわけで私たちの仕事仲間にも親しまれていたひぃちゃんでしたが、後半は私のマネジメントも手伝ってくれました。彼女はとても聡明でしたので、仕事の取次などもしてくれていたのです。ロケーションにもついて来てくれましたし、本当にいろいろなことを器用にこなしてくれました。私は十代のころに家を出て仕事ばかりしてきたので、恥ずかしながらあまり家事をやってきませんでした。それにマネジメントも人任せでしたから、本当にできることが限られていたのです。ですからひぃちゃんに頼ることがどうしても多くなっておりました。

小髙が亡くなってからの生活でも、私をしっかり支え続けてくれました。千葉の田舎では暮らし難くなると考えて思い切って北海道に戻って来ましたが、私の暮らしが落ち着くまで一緒にいてくれるということで、わざわざついて来てくれたのです。彼女のご実家は栃木県ですが、いつでも温かく受け入れてくれる家族があるのにも関わらず、遥々北海道まで一緒に来てくれました。そこで、こんな私の為に献身的になってくれた彼女へのご恩返しの為にも、なんとかしっかりと生きていかなければならないと意を決して、ちょうど一年前から活動を再開することにしたわけです。ひとえに、ひぃちゃんの幸せな笑顔を見るために…。何としても彼女にはもっと幸せを感じて欲しかった。あの葉山での素晴らしい暮らしを心の支えにして、ここまで苦労してついて来てくれた気持ちに何とか報いたかったのです。

しかし、残念ながらそれも叶いませんでした。六月半ばに、あっという間にこの世を去ってしまったのです。三ヶ月間、病魔と必死に闘ってきましたが、とうとう力尽きてしまいました。享年74歳、あと数日で誕生日を迎える時でした。亡くなってからのこの二ヶ月余りの間、彼女のことを思い大変辛い日々を送ってまいりました。六年前に夫に先立たれた時も辛かったのですが、それ以上の悲しみに襲われました。あまりにも突然過ぎて、覚悟をしていなかったからかもしれません。なぜ年上の私を置いて先に逝ってしまったのでしょうか。正直に言って、彼女の死のショックから未だ立ち直ることができないでおります。でも、それでも、わたしは生きていかなければなりません。

その間、歯を食いしばって毎日のInstagramの更新も、欠かさず行ってきました。実際、彼女が亡くなる数日前に沢本忠雄さんの訃報が届き、衝撃を受けていたばかりだったのです。長く生きておりますけれど、こんなに辛く悲しい事が重なる事は滅多にありませんでした。このような状況の中、Instagramのフォロワーの方の存在が心の支えになりました。毎日のコメントが本当にありがたく、落ち込んでばかりはいられないと奮い立たせてくれているのです。辛い事は重なりましたが、活動を再開してよかったと思っております。本当に感謝の毎日です。そして自分ができる事は何なのか、改めて考えさせられております。命ある限りは一生懸命に生きていかなければならないからです。

※昨年の九月から毎週月曜日に投稿してまいりましたが、少しの間お休みすることにしました。また気持ちを新たにしてから再開いたします。

最後の別れ

2016年8月、久々に千葉の館山市に上陸した台風は猛威を振るって私たちの暮らしを直撃していました。倒木が道路を寸断し、夫の入院する長生病院に行けない日が一日だけあったのです。それは亡くなる前日のことでした。一週間に三つの台風が千葉を直撃し、自宅の屋根が損傷するほどの記録的な風雨に曝されていました。夫の様子が気になるも、自宅に閉ざされ屋根や窓を打ち付ける聞いた事もないような雨音に怯えていたことを、今でも思い出します。

思い返せばちょうど台風が近づいてくる直前の8月21日に、小高は救急車でかかりつけの長生病院に運ばれました。だいたい最後の一年は細かく入退院を繰り返していましたが、とにかく本人は入院しても「すぐに帰る」と言って聞かなかったものです。主治医の先生もできるだけ自宅で過ごす時間を長く持った方が良いという考えでしたので、今回もすぐに帰って来られるだろうと思っておりました。…しかし、それは叶いませんでした。

普段、病院にいても小髙は好きな音楽を聴き、窓から眺められる自然の景色を愛でながら静かに過ごしていました。よく小鳥の囀りも聴こえてきていたのですが、特に鶯の鳴き声には慰められると言っていました。もちろん私も、入院中は面会時間の7時から19時までフルに付き添っておりましたので、そこまで寂しさは感じていなかったと思います。でも台風の影響でたった一日だけ行けなかったその日に、小高は魘されながら私の名前を何度も呼んでいたそうなのです。

翌朝、一日ぶりで病院に駆けつけた時は、既に昏睡状態で口が利ける状態ではありませんでした。二日前までは普通に話もできたのに…前日に来られなかったことが悔やまれてなりませんでした。それでも主治医の先生は「耳はしっかり聴こえている筈ですから、とにかく声をかけてあげてください」と言って下さったので、必死に声をかけたことを覚えています。「ここに鞠子はいますよ!一緒におりますよ」と…。

2016年8月25日15時37分、小髙は静かにこの世を去りました。思えば60年近くもの間、夫の人生に寄り添い続けてきましたので、常に二人は一緒でした。覚悟をしていたとはいえ、実際に一人になる寂しさは例えようがありません。それでも私は生きていかなければならないのです。

「…爽やかな命と共に 風のようにあの世に行きます 皆さままたお会いしましょう さようなら」 小髙 尊

終戦記念日に思うこと

五歳の時に終戦を迎えましたから断片的な記憶しかありませんが、それでも戦争の恐ろしさを忘れることはできません。室蘭に生まれ育ち終戦も室蘭で迎えましたが、当時、家族は病気で寝たきりの曽祖母と祖父母、両親と姉二人と生まれたばかりの弟の九人でした。空襲警報が鳴ると寝たきりの曽祖母を残して、祖母と母が子供たちの手を引いて防空壕に逃げたのを思い出します。ある時は防空壕に逃げきれなくて、隣家の軒に身を隠したこともありました。とにかく警報が鳴ると恐ろしさと緊張感で冷や汗が出たのを思い出します。葉山に居た時、正午になると警報音と同じような音が鳴ったのですが、いちいち体が反応していました。辛く嫌な記憶が、冷汗と動悸を起こさせるのです。

当時、実家は雑貨店を営んでいましたから、日常生活に必要なものは一通り揃えていました。忘れもしないのは終戦の翌日のことです。体の大きいアメリカ兵達が自転車を担いで家の前の坂を登ってきた時に、雑貨店を荒らされるのではないかと母は肝を冷やしていました。鍵をかけて息を潜めて過ごしていたのを覚えています。それから、終戦後は極端な食糧難に陥っておりましたので、配給だけでは到底、生きられませんでした。大家族を抱える母は、どうしても闇市で手に入れざるを得なかったのです。汽車に乗って食料を調達してくるのですが、途中で官憲に見つかると没収されて線路にばら撒かれると聞いていたので、姉達と駅まで母を迎えに行った時に荷物を抱えているかどうか毎回、心配でした。

母が「晩ご飯よ」と声をかけてくれるのに「どうせご飯じゃなくて、お芋でしょう?!」と言ってしまって、大人達に苦笑されたのを覚えています。私は無邪気な未就学児童でしたので、当時の大人達がどれほど大変だったのかと思うと今になって申し訳ない気持ちになります。皆、生きるのに必死でした。そんな中にあって、闇市に行って食料を手に入れることを潔しとしない人もいました。近所に住む学校の先生でしたが、配給だけで過ごしていてとうとう餓死してしまったのです。子供ながらにどうしてなのか、理解できませんでした。ある意味、無法地帯において、生きることへの執着心を捨てては生きられないことを思い知らされたような気がします。同時に、何の罪もない人たちを国の都合で死に至らしめる戦争というものが憎くて仕方ありません。実際に戦時中に亡くなった方々だけでなく、戦争の煽りで戦後に命を落とす方も少なからずいたわけです。

現代においても、常に世界のどこかで戦争が行われている現実に胸を痛めます。何故、戦争が行われるのか。歴史を繰り返してもそこから学ぶ事を知らないのかと疑問に思います。国の都合で国民が、何の罪もない国民が死に追いやられる戦争を繰り返してはいけないのです。そのために、私たちも常に正しい情報を得て一人ひとりが考える事をやめてはいけないと思います。今日、終戦の日を迎えて改めて考えさせられています。

ところで、小髙は戦争に関する詩をたくさん遺していました。今日はその中からひとつ、ご紹介します。戦争の悲惨さを改めて考える契機にしていただければ幸いです。

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「影」 小髙 尊

人間のやさしさを

僕は信じてきた

広島・長崎の

無情は生涯

ゆるせない

人間の影だけ残る

広島の記憶ーーー

爪まで剥けた皮膚

母のまま炭になり

崩れ落ちた女性

人間をモルモットにした

戦争の記憶

詩 「いのち微笑む」

あなたの

毎日の微笑みは

私のともし火

あなたの

ひとすじの気持ちは

青空のようだ

海原のはるか

いのち微笑む

小髙が書いたこの詩は、私たちの半生記「いのち微笑む」(2000年)のタイトルになったものです。葉山にいた頃の作品です。俳優業を断念し、海辺での療養生活の中では数々の詩や俳句が生まれました。ことのほか膵臓の病が重く、救急車で搬送されることもしばしばありましたが、詩を書くことは決してやめませんでした。役者を断念しても表現者として生きていたかったのです。小髙にとって詩を書くことは、生きることそのものでした。

ところで、著書「いのち微笑む」の出版までの道のりは容易くありませんでした。実は、学研の木村編集長からのお声がけをいただいた当初、私たちは乗り気ではなかったのです。煌びやかな世界から離れ、病気と闘う夫とそれを支える妻の日常生活を赤裸々にしたところで、世の中の一体、何の役に立つのかわからなかったからです。それでも、私たちの生き方に共感を覚える方がいるのではないかという期待と、闘病の道半ばではあるけれど二人の半生を振り返ることは、残された時間をより豊かに生きるためにも必要だと考え、半生を纏める決心をしたのです。

この本は、二人の出会いからそれまでの記録について日々記していたものを編集したものですから、今読んでも生々しく記憶が蘇ります。また、随所に小髙の詩が織り込まれており、その時の心情が詩を通して読み取れるのです。詩の選定から編集まで細心の注意を払い時間をかけましたから、出版までに三年余の歳月を要しました。お陰で小髙も精魂を使い果たし、三年で体重が7、8キロも落ちてしまいましたが、充実感に漲っていたのを覚えています。産みの苦しみではありませんが、この本は二人にとって大事な子供のような作品になりました。

さて冒頭の詩ですが、闘病の最中に書かれたものでした。小髙の私への感謝の気持ちと、限りある命の大切さを謳ったものです。実際、病との闘いの辛さは想像を超えますが、それを支える側も大変なものでした。そんな中、わたしたち夫婦は言葉を交わさずとも、詩を読むことでお互いの理解を深め合うことができたのです。

振り向けば

とても幸せな歳月でした

青空はひとすじに

青ければいいーーー

皆様に

心からの感謝を込めて

(2000年9月18日)

出版から16年後、小髙は千葉の大海原に抱かれるように、静かにこの世を去りました。

千葉での暮らし~いづみちゃんとバラ園へ

葉山から千葉へ移ってきましたが、相変わらず毎日、海に出ていました。しかし、大海原は午前中は比較的に穏やかでも午後になると荒れてくることも多かったので、一日中ずっと浜辺で過ごすことはなくなりました。また、葉山の入り江とは違って、千葉の海は遊泳禁止になることもしばしばあったため、海に入り難いのです。それで当初は、勝浦の守谷海岸までわざわざ出掛けていました。白子から車で片道1時間くらいかけて行ったのを覚えています。

ところで、白子といえばテニスの合宿所としても有名ですが、私たちもよく近所のテニスコートに行って気軽にテニスを楽しんでいました。実は葉山の頃からテニスをしていたので、近所にテニスコートがあるというのも白子を選んだ理由のひとつでした。それから葉山と違って海で過ごす時間が短くなった分、小髙はずっとやってみたかった絵を描き始めました。もちろん詩や俳句も書き続けており、千葉に来てからはさらに創作意欲が掻き立てられていたようでした。

白子は都会から離れていましたし、なかなか気軽にお友達を誘うこともできなかったのですが、それでも何度も遊びに来てくれたのは芦川いづみさんこといづみちゃんです。いづみちゃんとは日活時代からとても親しくしていて、気の置けない友人の一人です。お住まいの横浜からは遠いのですが、それでも会いに来てくれて嬉しかったですね。白子の海はもちろん、他にもいろいろな所にご一緒して楽しい思い出が沢山あります。中でも「京成バラ園」に行ったのがとても印象に残っています。

その時はまるで大人の遠足気分でした。よく食べ、よく笑い、本当に楽しかったのです。バラの花の匂いを嗅ぎ比べる時の表情がお互いに面白くて、無邪気に笑ったのを覚えています。日活に入った頃はお互いにまだまだ若かったのですが、その頃に戻ったような感じになるのが不思議でした。いづみちゃんはお花が大好きで、今もご自宅ではたくさんのお花を育てているそうです。特に小さいバラが好きだとか。バラ園はとても見応えがあったので「またぜひ来たい!」なんて興奮気味に言ってました。

話は変わりますが、千葉はとても長閑で近所にも畑が多く、葉山とはまるで別世界でした。都会から離れていましたし、仕事に出掛けて行くのも億劫になってしまうような所でした。そんな中、引っ越しをして間もなくの頃だったでしょうか。元松竹のプロデューサーの名島さんと、学研の木村さんがわざわざ私たちを訪ねてきてくれたのです。ふたりは親友同士で仕事の繋がりはないとのことでしたが、小髙の闘病についての新聞記事を見て是非とも本にしたいとの申し出があったのです。それが「いのち微笑む」を世に送り出すきっかけとなりました。

…この続きは次回にお話しします。

大海原を求めて千葉へ(1997)

湘南国際村の開設のために始まった葉山町の山林の伐採工事の所為なのか、目の前の海に赤土が混ざるようになってきたのは、バブル真っ只中の事でした。私たちは少し浮世離れした暮らしをしていたので、世俗的な事には頓着しておりませんでしたが、海の色が変わってきた時には流石に世の中の変化を感じざるを得ませんでした。何しろ小髙の療養のために大好きな海を眺められるところに移り住んできたのに、海が汚れてきたのでは元も子もありません。一生を葉山で暮らすつもりでしたが、どうやらそれも叶わないと思い始めていました。

それまでの葉山の海はものすごく透明で、一度潜ればそこは竜宮城じゃないですけど、珊瑚に熱帯魚、季節ごとに変わる魚介類の宝庫であることがわかりました。とにかく毎日、素潜りで熱帯魚と一緒に戯れ、あるいは魚介類を素手で捕獲して新鮮なものを口にするというような豊かな生活をしていました。例えば、「ウニ丼が食べたい!」と思ったら、海に潜って獲ってそのまま食卓へ…なんてことはいとも簡単だったのです。当時は規制が緩かったので、全然お咎め無しどころか、ご近所の漁師さんや非番の警察官やら皆さん集って、楽しく浜辺でバーベキューなどワイワイやっていたものです。今ではとても想像もできない事でしょうね。

このように私たちはほぼ毎日、海に出ていましたが、自然と人が集まって来てくれました。葉山の住人は個性的な人が多かったのですが、気持ちにも余裕がある人ばかりでしたのでとても楽しかったものです。加えて我が家には、わざわざ葉山の自然を求めて来てくれる友人たちも沢山おりましたので、退屈する事はありませんでした。何より葉山での暮らしのお陰で、小髙の体調がひどく悪くなる事はほとんどなかったのです。振り返ってみても、小髙が思ったよりも長生きできたのは、澄み切った葉山の海のお陰なのです。

ところが、海の色が赤土で変わってきた途端になかなか人が集まらなくなりました。というのも海が汚れた所為で海藻類が死に、珊瑚が枯れて熱帯魚もいなくなってしまったからです。そして、海中の視界が悪くなってしまったので、素潜りがとても危険になりました。岩場も多く、ウツボなどの危険な生物は接近しなければその存在も確認し難かったからです。ですから海に潜ることも徐々にしなくなりました。それとは別に、家屋の維持も容易くありませんでした。茅葺き屋根を補修するにも職人が居なくなってしまって、なかなか思うようにもできなくなってしまったのです。

葉山を手放すのはとても惜しかったのですが、事情が事情だけに決断せざるを得ませんでした。そこでまた不動産屋の異名を持つ私の出番となったわけです。伊豆から湘南まで、マンションも視野に入れて探しました。仕事も考えて首都圏から遠く離れる事はできませんでしたので、エリアは限られていました。でも葉山が良すぎた所為で、なかなか思うように見つけられなかったのです。探し始めて一年くらい経った頃でしょうか、もともと葉山に住んでいた小髙の親しい友人から、千葉で探さないかと声をかけてもらったのです。

千葉の海というのはそれまでの選択肢には在りませんでしたが、せっかくなので探してみる事にしました。そうして偶然、広告にあった家が目に留まりました。その家は「陽のあたる坂道」に出てくるロケセットに雰囲気がそっくりだった上に、海まで徒歩で5分という願ってもない物件だったのです。そこは、小髙が好きだった高村光太郎の「智恵子抄」の智恵子が遊んだ砂浜に近い、九十九里浜にある白子町でした。全長60キロにも及ぶ砂浜は、葉山の箱庭のようなものとは対照的でした。九十九里浜の大海原に惹かれて、私たちは千葉に移り住む事に決めたのです。

次回は千葉での生活についてお話しする予定です。

洋上での最後の午餐

裕ちゃんこと石原裕次郎さんが亡くなる前の年の11月頃だったでしょうか。昼下がりに小髙と愛犬のムルソーを連れて葉山の海岸を散歩していた時、沖に派手なヨットが停泊しているのに気が付きました。確か龍が描かれたと思いますが、赤と黒のド派手なヨットは裕ちゃんのものに間違いありません。私たちは近所で親しくしている貸ボート屋の通称ピンちゃんのところに急いで行って、ムルソーを預かってもらい、手漕ぎボートを一艘借りました。ちなみにそのボートは最近、皇太子殿下に貸し出ししたばかりの新しいものとのこと。裕ちゃんの船のところに行くなら良いボートに乗って行ってほしいと、ピンちゃんも気を利かせてくれたのです。

小髙がボートを漕いで裕ちゃんのヨットに近づいたところ、クルーの一人が気付いてくれたので、私たちは大きく手を振りました。その時、裕ちゃんは背を向けてデッキに座っていましたが、クルーの呼びかけに応えて慌ててこちらに振り向き、驚いた表情から相好を崩して大きく手を振りながら「尊ちゃん!マリちゃん!これは神様の思し召しだね!!」と叫んだのです。まさかここで会えるなんて思ってもみなかったからでしょうけど…神様の思し召しだなんて、内心は大袈裟だなと思うよりも少しドキっとしていました。後から聞けば、小髙も同じように感じていたそうです。私たちは寂しいような、何かもう会えないような嫌な予感がしていました。

ところで、裕ちゃんと小髙は1958年公開の「陽のあたる坂道」で共演したのをきっかけに、親交を深めていました。小髙にとっては日活でのデビュー作でしたが、既に俳優座で舞台俳優として活躍していましたから、役者として裕ちゃんよりもキャリアはずっと長かったのです。また、小髙は役作りについては誰よりも拘りの強い人でしたから役者としてのプライドも高く、裕ちゃんも一目置く存在だったようです。年齢も一つ違いでしたから、私からみると「陽のあたる坂道」同様に二人は兄弟のような関係にも見えました。あるいは、お互いに真摯に向き合えるような真の友人関係だったといってもいいかもしれません。

役作りの話といえば、小髙が主演した1959年公開の「網走番外地」を参考にしたいと、裕ちゃんは単独で撮影所の試写室に行って熱心に観て研究していたこともあったそうです。因みにこの作品は、小高自身も相当に力を入れていたものでした。裕ちゃんは押しも押されもせぬ大スターでしたが、忙しい中にあっても影でどれほど努力をしていたものかと思います。また、役作りに関しては何かと小髙に客観的な意見を求めていたそうです。思い起こせば、小髙が本格的に療養生活に入る前までは、裕ちゃんと二人でよく飲みに行って深酒をすることもしばしばありました。彼らがまだまだ元気に活躍していた20代の頃ですが、一晩でお銚子を52本も空けたことがあったそうです。

ヨットでの話に戻りますが、裕ちゃんと小髙が会うのは本当に久しぶりのことでした。晩年はお互いに病気になってしまった所為で、なかなか会う機会が作れなかったのです。二人は音楽や絵画など芸術の分野についても話が合うそうで、そばで見ていても彼らの会話は常に弾んでいました。元々馬が合うのでしょうね。若い頃からお互いのことを理解し合っていましたから、会わない期間が長くても全く隔たりを感じていないようでした。そしてヨットの上での会話は、専ら健康についての話題でした。まだ50代に入ったばかりでしたし、病気が憎かったでしょうね。やりたいこともたくさんあったはずです。裕ちゃんは先にハワイに行ってるから、後で合流してほしいと話していました。海が大好きな彼らにとって、常夏のハワイは療養の地としてうってつけの場所だと考えていたのでしょう。

「俺のナポリタンは美味いんだよ」と言って、裕ちゃんご自慢のナポリタンと赤ワインを振る舞ってくれました。本当は裕ちゃんがフライパンを振りたかったのでしょうけど、その時はそれも叶わず専属の料理人が作ってくれました。裕ちゃんはすでに深刻な病に侵されていたのがわかっていたので、長居はできないと思いながらも2時間以上も一緒に過ごしたでしょうか。11月ですから日も短く、かなり肌寒かったのを覚えています。洋上でのささやかな宴は、悲しくも私たちが会う最後のものとなってしまいました。名残惜しくヨットを離れましたが、裕ちゃんはずっと私たちに手を振り続けてくれました。「本当にさようなら、ありがとう…」と言っているような気がしてなりません。今、こうしてその時のことを思い出しても涙が出てきてしまいます。もうこの世に裕ちゃんも、尊ちゃんもいないのですね…。

あれから35年の歳月が流れました。当時を知る日活の仲間も少なくなり、時代の流れを感じざるを得ません。私にとって今なお心の拠りどころは、あの日活の黄金時代です。その日活時代に、そして私たち夫婦の人生に、より一層の彩りを添えてくれた裕ちゃん。本当にありがとうございました。出逢えたことに心から感謝しています。

石原裕次郎さんとの出会い

石原裕次郎という人を初めて知ったのは、中学を卒業して室蘭文化学院に入ったばかりの頃だったでしょうか。当時「狂った果実」のポスターが、地元の映画館にデカデカと張り出されていたのを通学途中に見ていました。その頃から裕ちゃんの名前は、北海道の田舎町にも轟いてたのです。映画を観たことはなかったのですが、ポスターを眺めて子供ながらに「カッコいいお兄さんだなぁ」と思っていました。5人きょうだいの3番目で兄はいませんでしたので、裕ちゃんみたいなお兄さんがいたらいいのにと思っていたものです。

ところでデビュー直前の1957年の初詣に、家族で大笑いした出来事がありました。それは近所の八幡神社にお詣りした時におみくじを引いたのですが、そこには「石原裕次郎のような有名人になる」と書かれていたのです。単に「有名な人」ではなくて「石原裕次郎のような…」と書かれていた事に家族も皆、興味津々で私のおみくじを覗き込んだものです。片田舎の専門学校生の私が有名人になるとか、しかも石原裕次郎のような人気者になるなんて事は絶対にあり得ない話なので、馬鹿馬鹿しくって親たちも一緒になって大笑いしました。おみくじもその場でぽいっと捨ててしまったのです。取っておけば面白かったのに、勿体無いことをしました。

それにしても裕ちゃんは確か1956年にデビューしたばかりのはずでしたから、1957年のおみくじにその名前が刻まれるとは、どれほどセンセーショナルなデビューだったのでしょうか。流石、デビューして瞬く間に国民的な大スターになられたわけです。そして私はと言えば、おみくじを引いた年の春休みに長姉に唆されて日活のオーディションを受けて、あれよあれよと言う間にデビューを果たしました。そして、それから間もなくして本物の裕ちゃんと出会う運命だったとは…!おみくじを引いてから数ヶ月でこんなに状況が変わるなんて夢にも思いませんでした。

さて、一番最初に裕ちゃんの映画に出たのは1957年に公開された「嵐を呼ぶ男」でした。役名もなくエキストラのような出演で、作品の冒頭部分にチラッと登場したくらいのものでした。裕ちゃんとの絡みもなかったので撮影でお会いすることはなかったのですが、スタッフやキャストの緊張感や張り切り具合は他の映画とは少し違うような感じがしました。日活の看板俳優が主演となると、良い意味で撮影所の空気感が変わるのです。ですから本人に会わずとも、存在感が大いに感じられたのを覚えています。

その後、本格的に共演したのは、1958年に公開された「嵐の中を突っ走れ」です。裕ちゃんの最初の印象は、とにかく明るくて優しい人。後光が差しているかと思うくらいキラキラと光り輝いていました。スターのオーラというのを初めて感じた方です。この作品の私の役どころは、裕ちゃんが教員を務めるところの学生です。いきなり千葉の館山でのロケーションからの撮影でした。中原早苗さんをはじめほぼ同年代の女子学生役が集まりましたから、それはもう修学旅行気分でした。雨の日は撮影が中止になるので、みんなで裕ちゃんを揶揄って遊んだこともありました。

デビューしたばかりの私にとって、裕ちゃんは正にお兄さんのような存在でした。おまけにすごくスリムでスタイルも良くてカッコよかったのです。憧れの人と一緒に仕事ができるなんて夢のような時間でした。この映画の撮影から私のことは親しみを込めて「ちびマリ」と呼んでくれました。ちなみにこの作品でご一緒した白木マリさんは、裕ちゃんから「でかマリ」と呼ばれていました。

その後の共演作品は、1958年公開の役者として意気に燃えるきっかけとなった「赤い波止場」をはじめ「紅の翼」、1959年に「若い川の流れ」「天と地をかける男」、そして同年公開の「男なら夢をみろ」では初めて裕ちゃんの相手役に抜擢されました。最後の共演となったのは1960年公開の「鉄火場の風」でしたが、この作品についても裕ちゃんの相手役を演じました。本当にたくさんの思い出が詰まっている作品です。おかげさまで日活で数多くの作品に出演させて頂きましたが、裕ちゃんとの共演した映画はどれも印象に残るものばかりです。

私の役者としての人生において、多大なる影響をもたらしてくださった裕ちゃん。実は、夫である小髙の親友でしたので、プライベートでも長年に渡りお付き合いさせていただきました。裕ちゃんの命日が近づいてきましたが、次回は夫も含めたプライベートでの思い出についてお話しします。お楽しみに。

ヒデ坊との思い出

ヒデ坊こと和田浩治さんが亡くなってもう36年も経つのですね。月日の流れの早さを感じます。最後に会ったのはいつだったかはっきりと覚えていませんが、ヒデ坊はすでにご結婚されていましたから私も葉山に住んでいた頃だったでしょうか。雑誌か何かの取材で、場所は確か新宿の喫茶店だったと記憶しています。お互いにとても懐かしく、別れ際に「元気でね!また会おうね!」と、どちらともなく言ったのを覚えています。まさか、それが最後になるとは夢にも思いませんでした。

ヒデ坊と最初に出会ったのは「無言の乱斗」(1959)で共演した時でした。まだ16歳という若さでしたから、やんちゃな少年という印象でした。実際、ロケーション先の旅館で、同年代の役者と一緒になってふざけてドタバタと廊下を走って、スタッフに怒られていました。またある時は、私のお弁当に好みのおかずを見つけて「これちょうだい!」と言い終わる前にお箸で摘んで持っていったりと、子供っぽくて苦笑することもしばしばありました。実の弟と同じ4歳年下でしたから、姉に甘えるような態度があっても大目に見てきたものです。

それでも演技に入ると真剣そのもので、とにかく一生懸命に頑張っているのがわかりましたから、どうしても憎めなかったですね。それに今思えば、相当なプレッシャーの中だったのではないでしょうか。裕ちゃんにどことなく風貌が似ているということで、日活としては第二の石原裕次郎として育てたい思いが強かったはずです。それを証拠にダイヤモンドラインのメンバーにも選ばれましたし、自分よりも年上の大先輩の中に囲まれていたら、背伸びもしたくなったことでしょうね。コンビを組んで15作品ほど共演しましたが、後半に入ると随分と大人びて落ち着いてきたのがわかりました。

ヒデ坊については以前にも書いたことがありましたが、私が日活を離れてからどのように活躍してきたのかはほとんど知りませんでした。その後、日活も衰退してヒデ坊もフリーになってからは、東映などの時代劇で活躍しているという話が耳に入ってきて、ホッとしたのを覚えています。あの若かった弟のようなヒデ坊も、役者として生きる道を見つけて頑張っているなと思っていた矢先に、訃報が届いたのです。まだ42歳、役者として脂が乗ってこれからという時に無念だったに違いありません。とても驚きましたし、悲しかったですね。

ヒデ坊との共演は、日活時代の中で最もボリュームがありました。そして、何といっても唯一のコンビでしたから、決して忘れることはできません。ヒデ坊との共演の中で、私自身も役者として大いに成長することができたことをとても感謝しています。今、私ができることは、ヒデ坊が活躍した記録を改めて日活ファンに紹介して振り返ることです。Instagramのフォロワーの方々とのコメントのやり取りの中で、ヒデ坊の魅力を伝えていくことが、今の私ができる恩返しなのかなと思っています。

ヒデ坊、あまりにも早い旅立ちに驚きと悲しさでいっぱいでした。ヒデ坊とコンビを組んだ数々の作品は、私の日活時代を語る時に欠かせない愛おしいものばかりです。本当にありがとう…。

次回は石原裕次郎さんについてお話しする予定です。

地井武男さんとの思い出

地井ちゃんが亡くなってもう10年になるのですね。改めて月日の流れの早さを感じています。地井ちゃんとは「北の国から」で夫婦役を演じましたので、ドラマ開始から最終話まで約20年間ご一緒させていただきました。私のキャリアの中でも、長期にわたって夫婦役を演じたのは地井ちゃんだけでしたから、亡くなったと聞いた時は寂しさもひとしおでした。因みにドラマが開始されたのが1981年、最終話が2002年、地井ちゃんが亡くなったのが2012年、そして今年が2022年です。初めてお会いしてからもう41年なんですね。

地井ちゃんは一言で言えば、ひょうきんな人。とても明るくて話題も豊富でしたから、自然と周りの人たちを笑顔にさせてくれましたね。具体的には言えないけれど、自虐ネタもたくさんあって随分と笑わせてくれました。もともと役者を目指すきっかけになったのが、日活映画への憧れとか。特に裕ちゃんが好きだったみたいで、独特な歩き方のモノマネを披露してみんなの笑いを誘っていました。裕ちゃんだけでなく、旭さんや錠さんのモノマネもすごく上手かったですね。日活への憧れが過ぎて、夜中に撮影所にこっそり忍び込んで夜が明けるまで銀座のオープンセットに佇んでいたというエピソードを聞いた時に、役者になりたいという若き日の地井ちゃんの熱い想いが伝わってきたのを覚えています。

さて、ドラマの撮影は殆どが富良野でのロケーションでしたし、夫婦役でしたので行動を共にする機会も多くありました。定宿にしていた富良野プリンスホテルにはテニスコートがありましたので、撮影の合間に2人で硬式テニスを楽しんだこともありました。地井ちゃんは学生時代に軟式庭球をやっていたそうで、乱打をしながら「やっぱり軟式が一番だ」なんて言ってましたっけ。そうそう、状況に応じて私に対する呼び方も変えていました。大抵は「まゆみさん」って呼んでくれるのですが、調子に乗っている時は「まゆみ」と呼び捨てにされることも…私の方が年上なんですけれどね!あるいは改まって何か言いたい時には「清水さん」って呼ぶのです。そうやって人の懐に入ってくる方でしたから、本当に多くの人から愛されていたと思います。

ところで、「北の国から2002遺言」(2002年9月放映)では、私が癌で亡くなるシーンがありました。実は、リハーサルから地井ちゃんは本気で泣いていたのです。本番さながらの迫真の演技というよりは、撮影の前の年に亡くなられた奥様を思い出して感情移入してしまったのでしょうね。棺桶で寝ていて、もらい泣きしそうになるのを堪えるのに必死でした。とても気の毒で気の毒で…最愛の伴侶を亡くされて、まだ立ち直れていなかったとわかり、とても切ない気持ちになりました。そういえば富良野のロケーションでも、この当時はお酒をかなり飲んでましたね。寂しさを紛らせていたのかなと思います。

この撮影の10年後に地井ちゃんも帰らぬ人となりましたが、休業の折、追悼の言葉も述べることができないでおりました。今、こうして思い出をお話しする機会があって少し救われた気持ちです。地井ちゃんの笑顔、けっして忘れません。本当にたくさん笑わせてくれましたね。思い出すと少し泣けてきます。とても楽しい思い出ばかりです。ありがとうございました。

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