追悼 サワタボさん

このような文章を投稿することになるとは夢にも思いませんでした。サワタボさんがお亡くなりになったなんて、未だ信じられない気持ちです。つい先日もお電話したばかりでした。その時は「明日はゴルフだから」って仰ってたんですよ。高齢なのに普通にラウンドできるなんて本当にお元気だなって、感心していたところでした。コロナ禍でなければ早々に松阪に伺いたかったのですが、それも叶わずとても残念です。再会を果たせず本当に悔しいです。早過ぎですよ、サワタボさん!あんなにお元気そうだったのに…、突然の悲しいお知らせに未だショックを拭えません。

サワタボさんとの出会いは日活映画でしたが、コンビを組んでいたわけではありませんでしたのでそれほど共演数は多くありませんでした。しかし、偶然にもお互いの主演作品に相手役で共演していました。サワタボさんが主演の「銀座ジャングル娘」(1961)は、渡辺マリさんのヒット曲に乗せた軽快な喜劇でした。春原政久監督の作品でしたし、撮影現場はとても明るく楽しいものでした。それから同じく春原監督で私の初の主演作品「カミナリお転婆娘」(1961)、他には森永健次郎監督の作品で「十代の河」(1962)もありましたね。どれもSPですが、私にとっては印象深い作品ばかりです。お互いにデビューした時期も近かったですし、日活が一番輝いていた時代を共にした仲間との共演は、決して忘れることはできません。

当時の日活は裕ちゃんを筆頭に個性的な役者が揃っていました。中でもサワタボさんは今でいうところの「爽やかイケメン枠」でしょうか。性格もイケメンで明るくて、見た目そのままの素敵な好青年でした。サワタボさんは実際、私より少し年上ですが、いつも目線を合わせてくれるので年齢差を感じた事がありませんでした。そのくらい大人で気さくな方でしたから、いつも気持ちよく仕事をさせていただきましたね。当時は「三悪トリオ」のメンバー(他に小林旭さんと川地民夫さん)だったそうですが、悪のイメージは全くないので個人的には少し違和感を覚えます。

ところで、私は1963年に日活を離れましたが、どうやらサワタボさんも同じ時期だったようなのです。当時は自分のことで精一杯でしたから、他のメンバーの動向などは後で知ることが多くありました。そんな訳である日、ドラマでご一緒する機会にサワタボさんも日活を離れたことを知りました。サワタボさんのマネージャーは松村さんという方でしたが、偶然にも私がお世話になっていた小橋マネージャーの旦那さんだったのです。私たちは松村さんと小橋さんが運営する事務所に所属していましたから、道理でドラマでご一緒する機会も多かったのです。こうして、日活を離れた後もサワタボさんとはご縁がありました。

その後、私も夫の闘病生活に付きっきりで随分と仕事を離れておりましたから、仕事の関係者とは殆ど連絡を取っておりませんでした。サワタボさんとも活動を再開してから本当に久しぶりにお電話をしたくらいです。当初は、知らない番号だと思われて3回くらいキャンセルされてしまいましたけど、しつこく掛けたら出てくださいました。そうそう、以前にサワタボさんと共演したドラマ「白い魔魚」(1965年)について投稿したことがありました。私の主演ドラマでしたが、あまり詳しく覚えていなくてサワタボさんにお電話したんです。そうしたら「俺、全然覚えてないから!」って即答されてしまいました。…それも今年に入ってからのやり取りでしたね。

サワタボさんとドラマの共演をした後は殆ど連絡を取ることはありませんでしたので、その後の活動のことは再会した時に是非ぜひお話を聞きたいと思っておりました。本当に残念で仕方ありません。それでという訳ではありませんが、訃報に接してからサワタボさんのご著書がある事を知り、手に入れて今、読んでいます。ご著書「役者人生ひとり旅」には、日活時代の知らなかったエピソードがたくさんあって興味深いですし、フリーになられた後は舞台を随分やられていた事など知らない事がたくさん書かれていました。実際にお会いして懐かしいお話もたくさんしたかったですね。返す返すもとても残念でなりません。

長くなってしまったけれど、ひとつ思い出した事がありました。世田谷に住んでいた頃、小髙と一緒にサワタボさんの家に遊びに行った事がありました。サワタボさんの玄関には水槽があって、綺麗な熱帯魚が飼われていたのです。当時はとても珍しかったので、小髙も私も興味深く水槽を覗いていたら「尊ちゃん、良いでしょう⁈結構、楽しいから!」と言われて、それから私たちもノリノリ(?)で熱帯魚を飼った事がありました。小髙は凝り性なので、大きな水槽に珍しい熱帯魚を一時期、100匹ほど飼っていたかしら…今ではそれも良い思い出です。

昨今は昭和ブームだそうで、昔の日活映画もたくさん配信されています。残念ながら亡くなられた役者も多くなってしまいましたが、映画の中でいつまでも生き続けてくれているのが嬉しいですね。サワタボさんにとっても、日活での活躍がその後の役者人生の支えになっているのではないでしょうか。数少ない共演ではありましたが、写真と共に振り返りながら当時の日活の魅力、サワタボさんの魅力を伝え続けていく事が、残された日活の仲間としてできることなのかなと思っています。

サワタボさん、日活の仲間として出会えたことを心から感謝しています。どうか安らかにお眠りください。本当にお疲れ様でした。そして、ありがとうございました。

初めての連続ドラマ「白い魔魚」

日活を離れてからは、松竹や大映などでの映画出演の他、新たにドラマへも挑戦しました。元々、演技の幅を拡げたい思いもあって日活を離れましたから、念願が叶ったものです。映画とドラマではどれほど勝手が違うのか興味津々でしたから、緊張は全くと言っていいほどしていませんでした。とにかく新しい世界への期待感が高まり、ワクワクしていたのを覚えています。

実際に撮影が始まって分かったことは、ドラマは映画の縮小版だということです。当たり前かもしれませんが、スタッフの数は映画の1/2〜1/3くらいでしょうか。撮影部隊はとてもコンパクトな印象でした。連続ドラマなので半年間は一緒に仕事をしますから、自ずとキャストもスタッフも家族のように親しくなりましたね。皆で一緒に食事をして、和気あいあいとした雰囲気の中で、気持ちよく仕事をしていました。あるドラマでは撮影がオフの日も集まってハイキングに出掛けたこともあって、写真が残っておりました。松竹映画で受けたカルチャーショックが嘘のように吹き飛んだのを覚えています。

さて、連続ドラマに主演した最初の作品は舟橋聖一原作の「白い魔魚」でした。ライオン奥様劇場で1965年3月1日〜4月2日までの25回にわたって放送されたものです。この作品は、まず1956年に松竹で映画化されておりました。当時は映画が先行される傾向にありましたが、映画での評判をみてドラマ化するかどうか決めていたとすれば、今の時代とは順番が逆でしたね。このように振り返ると、娯楽の中心が映画からドラマに移行する時代の中にいたことがよくわかります。「白い魔魚」を主演するにあたり原作者である舟橋先生ともお会いしましたが、このドラマは時間をかけてとても丁寧に企画されたものだという印象を受けました。

ところで、「白い魔魚」は岐阜が舞台でしたので、東京と行ったり来たりしていました。共演は同じく日活出身の沢本忠雄さんでしたので、気心が知れてとてもやり易かったのを覚えています。でも残念ながら台本は処分してしまったし、詳細を思い出すことができません。それで先日、念のためにサワタボさんに連絡して訊いてみたのですが、「俺、全然覚えてないから!」とアッサリ言われてがっかりしてしまいました。それもそのはず、もう60年近くも前のお話ですから…仕方がないですよね。機会があればドラマも見直してみたいものです。

次回は、ドラマ「楽天夫人」のエピソードについてお話しします。

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