葉山から千葉へ移ってきましたが、相変わらず毎日、海に出ていました。しかし、大海原は午前中は比較的に穏やかでも午後になると荒れてくることも多かったので、一日中ずっと浜辺で過ごすことはなくなりました。また、葉山の入り江とは違って、千葉の海は遊泳禁止になることもしばしばあったため、海に入り難いのです。それで当初は、勝浦の守谷海岸までわざわざ出掛けていました。白子から車で片道1時間くらいかけて行ったのを覚えています。
ところで、白子といえばテニスの合宿所としても有名ですが、私たちもよく近所のテニスコートに行って気軽にテニスを楽しんでいました。実は葉山の頃からテニスをしていたので、近所にテニスコートがあるというのも白子を選んだ理由のひとつでした。それから葉山と違って海で過ごす時間が短くなった分、小髙はずっとやってみたかった絵を描き始めました。もちろん詩や俳句も書き続けており、千葉に来てからはさらに創作意欲が掻き立てられていたようでした。
白子は都会から離れていましたし、なかなか気軽にお友達を誘うこともできなかったのですが、それでも何度も遊びに来てくれたのは芦川いづみさんこといづみちゃんです。いづみちゃんとは日活時代からとても親しくしていて、気の置けない友人の一人です。お住まいの横浜からは遠いのですが、それでも会いに来てくれて嬉しかったですね。白子の海はもちろん、他にもいろいろな所にご一緒して楽しい思い出が沢山あります。中でも「京成バラ園」に行ったのがとても印象に残っています。
その時はまるで大人の遠足気分でした。よく食べ、よく笑い、本当に楽しかったのです。バラの花の匂いを嗅ぎ比べる時の表情がお互いに面白くて、無邪気に笑ったのを覚えています。日活に入った頃はお互いにまだまだ若かったのですが、その頃に戻ったような感じになるのが不思議でした。いづみちゃんはお花が大好きで、今もご自宅ではたくさんのお花を育てているそうです。特に小さいバラが好きだとか。バラ園はとても見応えがあったので「またぜひ来たい!」なんて興奮気味に言ってました。
話は変わりますが、千葉はとても長閑で近所にも畑が多く、葉山とはまるで別世界でした。都会から離れていましたし、仕事に出掛けて行くのも億劫になってしまうような所でした。そんな中、引っ越しをして間もなくの頃だったでしょうか。元松竹のプロデューサーの名島さんと、学研の木村さんがわざわざ私たちを訪ねてきてくれたのです。ふたりは親友同士で仕事の繋がりはないとのことでしたが、小髙の闘病についての新聞記事を見て是非とも本にしたいとの申し出があったのです。それが「いのち微笑む」を世に送り出すきっかけとなりました。
…この続きは次回にお話しします。