モデルの仕事

オーディションに合格して日活に入社しましたが、演技の基礎もないゼロからのスタートでしたので、最初からそう易々と映画に出られるわけではありませんでした。「月下の若武者」ではセリフはたった一つだけでしたし、撮影に丸一日かかったものの、なんとか役割を果たせたようなものです。そしてもう一つ、私には演技ができるかどうかという以前に、北海道弁の訛りの問題がありました。そこで、標準語に慣れるまでの間、演技の勉強をしながらモデルの仕事をいただいておりました。

ところで、戦後は女性も進学する人が増えて、ほとんどが結婚するまでとはいえ、社会に進出する機会が増えつつある時代でした。その所為か、通勤や通学などでどのようなファッションが好ましいかなど、若い女性を中心としてファッションに対する意識が高まっていました。そんな中、女性誌が次々と刊行されていたのを覚えています。そのような時代の流れの中で、モデルとしての仕事の需要も多く、おかげさまで雑誌社などからたくさんのオファーをいただいておりました。当時は、電車で布田の撮影所まで通勤していましたが、撮影所の仕事が終われば、待機していた雑誌社の車で、撮影スタジオや撮影ロケの現場に向かうという毎日でした。洋服のモデルや、雑誌の表紙、あるいは取材を受けることもたくさんあって、目が眩むほど忙しくしていました。

また、モデルの仕事を通じて、日本の名だたるアーティストとの出会いがありました。今、振り返ってみても、とても贅沢ですし幸運なことです。例えば、写真家の第一人者であった秋山正太郎先生には、たくさんのポートレートを撮影していただきました。六本木にあった先生のスタジオへは、何度も通ったものです。それから、当時大人気だった中原淳一先生とも、多くの仕事をご一緒させていただきました。先生のアトリエでは、若い女性に人気のあった雑誌「ソレイユ」や「ひまわり」の撮影が行われておりましたので、アトリエに伺う機会も頻繁にありました。

このようにモデルの仕事を通じて、当時の最先端のファッションを知ることは、とても有意義でしたし、楽しいものでした。また、自分の身にまとうファッションが人々に影響を与えているのだと思うと、やりがいも十分に感じられました。その後、徐々に映画への出演機会が増えてきましたので、役者の仕事が中心になりましたが、できるだけモデルの仕事はしていきたいと考えていました。81歳になって活動を再開した現在でも、その気持ちは変わらないところです。

次回は、小髙雄二との出会いについてお話しします。

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