終戦記念日に思うこと

五歳の時に終戦を迎えましたから断片的な記憶しかありませんが、それでも戦争の恐ろしさを忘れることはできません。室蘭に生まれ育ち終戦も室蘭で迎えましたが、当時、家族は病気で寝たきりの曽祖母と祖父母、両親と姉二人と生まれたばかりの弟の九人でした。空襲警報が鳴ると寝たきりの曽祖母を残して、祖母と母が子供たちの手を引いて防空壕に逃げたのを思い出します。ある時は防空壕に逃げきれなくて、隣家の軒に身を隠したこともありました。とにかく警報が鳴ると恐ろしさと緊張感で冷や汗が出たのを思い出します。葉山に居た時、正午になると警報音と同じような音が鳴ったのですが、いちいち体が反応していました。辛く嫌な記憶が、冷汗と動悸を起こさせるのです。

当時、実家は雑貨店を営んでいましたから、日常生活に必要なものは一通り揃えていました。忘れもしないのは終戦の翌日のことです。体の大きいアメリカ兵達が自転車を担いで家の前の坂を登ってきた時に、雑貨店を荒らされるのではないかと母は肝を冷やしていました。鍵をかけて息を潜めて過ごしていたのを覚えています。それから、終戦後は極端な食糧難に陥っておりましたので、配給だけでは到底、生きられませんでした。大家族を抱える母は、どうしても闇市で手に入れざるを得なかったのです。汽車に乗って食料を調達してくるのですが、途中で官憲に見つかると没収されて線路にばら撒かれると聞いていたので、姉達と駅まで母を迎えに行った時に荷物を抱えているかどうか毎回、心配でした。

母が「晩ご飯よ」と声をかけてくれるのに「どうせご飯じゃなくて、お芋でしょう?!」と言ってしまって、大人達に苦笑されたのを覚えています。私は無邪気な未就学児童でしたので、当時の大人達がどれほど大変だったのかと思うと今になって申し訳ない気持ちになります。皆、生きるのに必死でした。そんな中にあって、闇市に行って食料を手に入れることを潔しとしない人もいました。近所に住む学校の先生でしたが、配給だけで過ごしていてとうとう餓死してしまったのです。子供ながらにどうしてなのか、理解できませんでした。ある意味、無法地帯において、生きることへの執着心を捨てては生きられないことを思い知らされたような気がします。同時に、何の罪もない人たちを国の都合で死に至らしめる戦争というものが憎くて仕方ありません。実際に戦時中に亡くなった方々だけでなく、戦争の煽りで戦後に命を落とす方も少なからずいたわけです。

現代においても、常に世界のどこかで戦争が行われている現実に胸を痛めます。何故、戦争が行われるのか。歴史を繰り返してもそこから学ぶ事を知らないのかと疑問に思います。国の都合で国民が、何の罪もない国民が死に追いやられる戦争を繰り返してはいけないのです。そのために、私たちも常に正しい情報を得て一人ひとりが考える事をやめてはいけないと思います。今日、終戦の日を迎えて改めて考えさせられています。

ところで、小髙は戦争に関する詩をたくさん遺していました。今日はその中からひとつ、ご紹介します。戦争の悲惨さを改めて考える契機にしていただければ幸いです。

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「影」 小髙 尊

人間のやさしさを

僕は信じてきた

広島・長崎の

無情は生涯

ゆるせない

人間の影だけ残る

広島の記憶ーーー

爪まで剥けた皮膚

母のまま炭になり

崩れ落ちた女性

人間をモルモットにした

戦争の記憶

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