洋上での最後の午餐

裕ちゃんこと石原裕次郎さんが亡くなる前の年の11月頃だったでしょうか。昼下がりに小髙と愛犬のムルソーを連れて葉山の海岸を散歩していた時、沖に派手なヨットが停泊しているのに気が付きました。確か龍が描かれたと思いますが、赤と黒のド派手なヨットは裕ちゃんのものに間違いありません。私たちは近所で親しくしている貸ボート屋の通称ピンちゃんのところに急いで行って、ムルソーを預かってもらい、手漕ぎボートを一艘借りました。ちなみにそのボートは最近、皇太子殿下に貸し出ししたばかりの新しいものとのこと。裕ちゃんの船のところに行くなら良いボートに乗って行ってほしいと、ピンちゃんも気を利かせてくれたのです。

小髙がボートを漕いで裕ちゃんのヨットに近づいたところ、クルーの一人が気付いてくれたので、私たちは大きく手を振りました。その時、裕ちゃんは背を向けてデッキに座っていましたが、クルーの呼びかけに応えて慌ててこちらに振り向き、驚いた表情から相好を崩して大きく手を振りながら「尊ちゃん!マリちゃん!これは神様の思し召しだね!!」と叫んだのです。まさかここで会えるなんて思ってもみなかったからでしょうけど…神様の思し召しだなんて、内心は大袈裟だなと思うよりも少しドキっとしていました。後から聞けば、小髙も同じように感じていたそうです。私たちは寂しいような、何かもう会えないような嫌な予感がしていました。

ところで、裕ちゃんと小髙は1958年公開の「陽のあたる坂道」で共演したのをきっかけに、親交を深めていました。小髙にとっては日活でのデビュー作でしたが、既に俳優座で舞台俳優として活躍していましたから、役者として裕ちゃんよりもキャリアはずっと長かったのです。また、小髙は役作りについては誰よりも拘りの強い人でしたから役者としてのプライドも高く、裕ちゃんも一目置く存在だったようです。年齢も一つ違いでしたから、私からみると「陽のあたる坂道」同様に二人は兄弟のような関係にも見えました。あるいは、お互いに真摯に向き合えるような真の友人関係だったといってもいいかもしれません。

役作りの話といえば、小髙が主演した1959年公開の「網走番外地」を参考にしたいと、裕ちゃんは単独で撮影所の試写室に行って熱心に観て研究していたこともあったそうです。因みにこの作品は、小高自身も相当に力を入れていたものでした。裕ちゃんは押しも押されもせぬ大スターでしたが、忙しい中にあっても影でどれほど努力をしていたものかと思います。また、役作りに関しては何かと小髙に客観的な意見を求めていたそうです。思い起こせば、小髙が本格的に療養生活に入る前までは、裕ちゃんと二人でよく飲みに行って深酒をすることもしばしばありました。彼らがまだまだ元気に活躍していた20代の頃ですが、一晩でお銚子を52本も空けたことがあったそうです。

ヨットでの話に戻りますが、裕ちゃんと小髙が会うのは本当に久しぶりのことでした。晩年はお互いに病気になってしまった所為で、なかなか会う機会が作れなかったのです。二人は音楽や絵画など芸術の分野についても話が合うそうで、そばで見ていても彼らの会話は常に弾んでいました。元々馬が合うのでしょうね。若い頃からお互いのことを理解し合っていましたから、会わない期間が長くても全く隔たりを感じていないようでした。そしてヨットの上での会話は、専ら健康についての話題でした。まだ50代に入ったばかりでしたし、病気が憎かったでしょうね。やりたいこともたくさんあったはずです。裕ちゃんは先にハワイに行ってるから、後で合流してほしいと話していました。海が大好きな彼らにとって、常夏のハワイは療養の地としてうってつけの場所だと考えていたのでしょう。

「俺のナポリタンは美味いんだよ」と言って、裕ちゃんご自慢のナポリタンと赤ワインを振る舞ってくれました。本当は裕ちゃんがフライパンを振りたかったのでしょうけど、その時はそれも叶わず専属の料理人が作ってくれました。裕ちゃんはすでに深刻な病に侵されていたのがわかっていたので、長居はできないと思いながらも2時間以上も一緒に過ごしたでしょうか。11月ですから日も短く、かなり肌寒かったのを覚えています。洋上でのささやかな宴は、悲しくも私たちが会う最後のものとなってしまいました。名残惜しくヨットを離れましたが、裕ちゃんはずっと私たちに手を振り続けてくれました。「本当にさようなら、ありがとう…」と言っているような気がしてなりません。今、こうしてその時のことを思い出しても涙が出てきてしまいます。もうこの世に裕ちゃんも、尊ちゃんもいないのですね…。

あれから35年の歳月が流れました。当時を知る日活の仲間も少なくなり、時代の流れを感じざるを得ません。私にとって今なお心の拠りどころは、あの日活の黄金時代です。その日活時代に、そして私たち夫婦の人生に、より一層の彩りを添えてくれた裕ちゃん。本当にありがとうございました。出逢えたことに心から感謝しています。

夫の療養生活と仕事の配分

どうにか小髙も日常生活を送れるほどに回復しましたが、俳優の仕事をする事はできなくなりました。日活を離れてから石原プロモーションに所属したので、仕事のオファーはいくつもありました。中には小髙と是非とも仕事がしたい監督からの直々の申し出もありましたし、裕ちゃんもかなり気にしてくれていました。何とか復帰してもらいたいと熱心に説得したかったようなのですが、当の本人が諦めてしまっていたのです。思うような役作りができるような体力を失っていたので、中途半端な仕事をするぐらいならキッパリと辞めてしまいたいと考えていました。いつ発作が起きてもおかしくない状態でしたので、致し方なかったのかなと思います。

ところで、小髙は幼少の頃から詩を書いておりましたから、葉山の生活でも自然と詩を書くことが日常となりました。自然の恵みの中で、自由に思うまま筆を運んでいたのをそばで眺めていて、小髙の生きる目的がはっきりと見えてきたのがわかりました。俳優としての夢は破れましたが、新たに生きる希望を見出せたことは何よりの事でした。しかし、それは同時に夫の収入がほとんど見込めないことを意味するものでした。夫の療養に寄り添いたい気持ちを抑えて、仕事に完全復帰すべきかどうかとても悩みました。

実は以前、世田谷にいた時にも悩ましい時期がありました。小髙が余命宣告を受けた時です。ある日、離婚をして仕事に打ち込んではどうかと提案してきたのです。今思えば、私に離婚する意思がない事がわかっていた上での発言に違いないのですが、夫も相当不安だったのでしょうね。その時点で、自分にとっての価値ある生き方とは、離婚してまで俳優としての仕事をすることではないとはっきりとわかっていました。まして、余命宣告を受けている夫を放ってまで仕事ができるものでしょうか。精一杯、最後までそばに居たいと思っていました。

そして、葉山に住み始めて小髙もようやく日常生活を送れるようになり、改めてプライベートと仕事の配分をどのようにすべきかを考えた時、それは同時に自分の人生を見つめ直す機会となりました。夫とあと何年一緒に暮らせるかわからない中、葉山で過ごす時間を大切にしたい思いが強くありました。そこで、お金では決して買えない価値ある時間を過ごすために、逆にどのくらい仕事をするべきかを考えたのです。日活を離れて俳優としてのキャリアを積むため必死に仕事をこなしてきましたが、それを半ば捨てる覚悟で仕事を選ぶ事にしました。

結局、できるだけ葉山から離れる事のない仕事を選んだおかげで、徐々に仕事の依頼は減ってしまいました。当然の結果ですが、一枚看板というわけにはいかなくなりました。その所為もあってか、困った事に日焼けした肌の色は濃くなる一方となったのです。

次回はハワイでの突然の挙式ついてお話しします。

砂浜の奇跡

瀕死の状態と言っては大袈裟かもしれませんが、小高は余命も宣告されておりましたのでほとんど寝たきりの状態で葉山に移ってきました。海が手に届くところにあるのに、そこに辿り着けないもどかしさを感じていたでしょうから、どうにか抱えて砂浜まで連れて行くことにしたのです。砂浜は目の前に、歩いて一分もかからない距離でした。ようやくふたりが素足で砂浜に下りた時、砂の温かさに体中が包まれるような感じがしました。小髙は時間をかけて静かに砂浜に横たわり、そして目を瞑りました…自然の力を全身で受け取るかのように。私たちは海風を感じながら、自然の中で過ごせる幸せを噛み締めていました。

葉山での生活は、午前中はのんびりと自宅で過ごして、お天気が良ければ午後からは砂浜へ行くのが日課となりました。おにぎりを作って持って行き、何時間も砂浜に寝転がって過ごすのです。小髙は極力、入院したがりませんでしたので、静かに過ごす他はありませんでした。それで私も、仕事は小髙の体調を考慮して少しずつセーブすることにしていました。実際、夫がこの状態では、仕事もそんなにしている場合ではなかったのです。

毎日、ふたりで砂浜で過ごすようになってから、徐々に小髙も正気を取り戻しているのが手に取るようにわかりました。砂浜は歩くも良し、寝転がるも良し、とにかく砂が肌に触れると健康になれる気がしたのです。何時間でも砂浜で過ごしたくなりました。それから少しずつ海に入ることにしました。すると「水を得た魚」ではありませんが、みるみる元気になっていったのです。葉山に越してきたのが2月でしたが、夏が過ぎて秋になる頃には普通に日常生活が送れるほどになっていました。最初はどうなることかと思いましたが、自然の中で過ごすことがどんな治療にも勝ることか。今、振り返ってもこれは砂浜の奇跡でした。小髙は、砂浜で、葉山の海で、奇跡的に回復したのです。

でも、副作用もありました。それは私に…。ひどく日焼けしてしまって、気がついたら真っ黒に!マネージャーの小橋さんからは「仕事が来なくなるから、これ以上日焼けはしないように」と心配されたものです。女優が日焼けするなんてもっての外でした。マネージャーだけでなく周囲の人も心配するほどでしたが、そんな事はお構いなし。だって、小髙が回復したのですから。私には仕事よりも夫が優先だったのです。

次回は夫の療養と仕事との両立についてお話しする予定です。

海を求めて葉山へ(1977~)

夢破れてイタリアから帰国後、小髙は短期の療養を経て俳優活動を再開しました。日活に見切りをつけたかったものの、それから連続テレビドラマと映画にそれぞれ一本ずつ出演しておりました。いずれも帰国後にオファーがあったものですが、そこには断りきれない理由がありました。それは、ドラマがとても魅力的な役どころだったのと、映画は石原プロモーションが制作に関わっていて、裕ちゃんから直々にオファーを受けたものだったからです。

ドラマはナショナルゴールデン劇場「花と龍」(1970年3月〜5月)で、主演の渡哲也さんを支える三枚目の役どころでした。満身創痍で挑んでおりましたが、このドラマにおいても相変わらず人一倍、役作りに拘っておりました。体調が思わしくない中、スケジュールに穴を開けないよう自ら注射を打ちながら役に打ち込んでいたのを、ハラハラしながら見守っていたのを覚えています。実際、撮影終了後はさらに体調を悪くして、再び入院することになってしまいました。ですから、このドラマの出演で俳優生命が絶たれたと言っても過言ではありません。それだけに小髙の演技は、言葉には尽くせないほどの素晴らしいものでした。俳優小髙の遺作と言ってもよいほどの作品ですので、機会があればもう一度観てみたいと願っています。

そして映画は、日活での最後の出演作品となりました「スパルタ教育 くたばれ親父」(1970年8月12日公開)です。この撮影を最後に小髙は同年6月18日、正式に日活を離れました。しかし、イタリアの帰国からドラマと映画の出演を相次いで果たし、精魂使い果てたためか深刻な病魔に冒されておりました。騙し騙し仕事をしては休んでを繰り返していたのですが、ついには起き上がる事もできず、世田谷の自宅で寝たきりの生活を送っていたのです。実は、余命の宣告も受けており、医者からはあと2年くらいしか生きられないだろうと言われていました。その時、どうせ短い命なら、大好きな海を眺めながら過ごしてほしいと思い立ち、すぐさま物件を探し始めました。とにかく一刻も早く引越ししなければならないと考えていたからです。

仕事の都合上、首都圏から大きく離れることはできなかったため、湘南エリアを中心に探し始めました。なかなか見つからないため、東伊豆から熱海、下田まで探しました。とにかく海辺の家に住みたかったのですが、海を近くに眺めながら過ごせるところは探すのが難しかったですね。その頃、私についたあだ名が「不動産屋」でした。おかげさまで不動産に詳しくなってしまって、周りからはそのように揶揄されていたのです。そして最終的には、知り合いの伝手で葉山の物件に辿り着きましたが、そこまでに約一年がかかりました。

ようやく引っ越しの日、寝たきりの小髙を毛布に包んでタクシーに乗せて葉山の新居に向かいました。そこは、葉山の御用邸のすぐ隣、築100年にもなる茅葺屋根が特徴の一軒家でした。海が目の前に迫って、これ以上ないほどの贅沢な環境でしたので、小髙もさぞかし喜んでくれるだろうと期待しておりました。しかし、葉山に着いてただ一言、「残酷すぎる」と…。独り言のように呟いたのを聞き逃しませんでした。身動きできなく、目の前の海にさえも触れることができないことへの消沈は、私の想像を遥かに超えるものでした。それでも、余命幾許もない小髙を支えるには、心を明るくして気丈に自らを奮い立たせなければならなかったのです。

次回は、葉山での暮らしについてお話します。

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