世田谷の自宅へ(1961〜1977)

世田谷の桜3丁目に、小髙の自宅がありました。1961年に、青山恭二さんのご実家が経営する不動産屋さんから購入した新築の建売住宅です。それ以前は世田谷代田のアパートに住んでいましたが、結婚の可能性も考えて一戸建てに住み替えをしたものです。私はといえば、初台のアパートをそのままにして、事実上、同棲生活を送っていました。本来は入籍を先にすべきところですが、当時はとても許されない状況でしたので、事前に小髙と両親を引き合わせて結婚を前提とすることで、了承を得ておりました。

さて、引っ越しをしたのは小髙が「アラブの嵐」(1961)の撮影が終了した後でしたので、お互いにとても多忙な時期でした。同棲といっても初台のアパートと行ったり来たりでしたし、2人でいる時間も限られていましたので、当初は今でいうシェアハウスのような感じでしょうか。小髙は役者仲間を自宅に招いて、よく麻雀をしていたようです。とにかく面倒見の良い人でしたから、撮影でご一緒した方々がよく出入りしていました。家政婦もおりましたので、小髙と私が不在にしていても勝手に来られて寛ぐ方もおられたくらいに、役者仲間が気楽に立ち寄れる憩いの場でした。旧大蔵撮影所からも近かったですし、とても便利な場所だったのです。

1963年に日活を離れた後、初台のアパートを完全に引き払い、本格的に小髙と同居生活に入りました。私たちの関係は仲間内では知られておりましたが、まだまだ公にはできませんでした。しかし、時が経てば薄々、周囲も気づき始めるものです。そんなある日、世田谷の自宅周辺に記者が張り込んでいたことがありました。私たちに気づかれないように、中を伺っていたのです。その時、小髙は敢えて記者たちに声を掛けて自宅に呼びました。そして、丁寧にお茶を出し、何も隠す事なく成り行きを説明して、穏やかにお引き取りいただきました。記者の方も仕事ですから、立場を理解した上での対応だったのです。それから間もなく記事になり、わたしたちの関係は公のものとなりました。もちろん、憶測で悪く書かれることはありませんでしたので、「小髙の作戦勝ちだったかな」といったところです。

次回は、赤木圭一郎さんについてお話しします。

日活時代を振り返って(後編)

1961年といえば、忙しさのピークと言ってもよい頃でした。日活も全盛期でしたから、仕事は次から次へとこなさなければならない状況にありました。日本も復興へと大きく前進した時期と重なりますから、映画も人々に夢と希望を与えるようなものが多かったのです。実際、娯楽中心の無国籍映画に出ていると、現実の世界とも違う何か不思議な感覚に囚われることがありました。映画を観ていると、その世界に居るような錯覚に陥る方も多いと思いますが、演じる側もその世界に入ってしまうものなのです。もっとも、仕事が終われば現実の世界ですから、切り替えをしなければなりません。でも、それは私にとって、難しいことではありませんでした。

正直なところ、ヒデ坊とのシリーズものの撮影が続く中で、徐々にマンネリを感じていました。毎回パターンは違うものの、荒唐無稽な内容が続くと、自分は役者として、何を目指していけば良いのか分からなくなっていたのです。そんな中、SPなどで、小沢昭一さんをはじめとする喜劇役者さんとの共演は、新鮮で楽しく、大いにリフレッシュしたのを覚えています。一方、「機動捜査班 暴力」(1961)という作品に代表されるような、社会的な問題作に出演した時は、役作りにより一層、力が入りました。この作品で共演した父親役の菅井一郎さんからも、大変多くのことを学ばせていただきました。

ところで、ヒデ坊との共演作品の中でも「峠を渡る若い風」(1961)は、鈴木清順監督の作品ですが、それまでの荒唐無稽な映画とは一線を画したものでした。清順監督も作品に熱が入っていて、役作りに対する助言は、心に突き刺さるものばかりでした。殊に、基本に立ち返るべき助言は、それからの役作りに大いに役立ったのを覚えています。更には、この映画への出演は、その後の役者人生をどう歩むべきかについて、真摯に考えるきっかけにもなりました。

急速に時代が変化していく中で、自分自身はこのままでもよいのだろうかと、忙しいながらも常に頭を悩ませていました。女性としての幸せを掴みたい一方で、役者としての人生も全うしてみたいという思いが、沸々と湧いてきたのです。「もっと演技がしてみたい」という意欲が高まり、映画からドラマへと興味が移り始めたのも、ちょうどこの頃です。同時に、小髙雄二との結婚についても、いよいよ現実味を帯びてきていました。振り返ってみても、日活時代の後半は、人生の大きな岐路に立たされていたのです。

次回は、川地民夫さんについてお話しします。

日活時代を振り返って(前編)

自宅に保管している64冊の台本を眺めながら、当時のことを思い出していました。デビューは1957年の「月下の若武者」ですが、訳も分からず言われた通りに動いて、たった一言の台詞を言うのにも精一杯でした。それから、徐々にモデルの仕事で多忙になり、演技の勉強をする時間も思うように与えられない中、見様見真似でなんとかやりこなしていたのを思い出しました。それでも、清水マリ子としてデビューしてからは、まだまだ映画の出演も数えるほどでした。

ところで、石原裕次郎さんとご一緒した1958年の「赤い波止場」への出演が、役者としての覚悟を持ち、演技とは何かを考えさせられるきっかけになった事は、すでにお話した通りです。この映画をきっかけに、私自身も役者としての自覚が芽生えたのと同時に、日活も積極的に登用し始めた事を覚えています。芸名が「清水まゆみ」に改められたのも、ちょうどその頃です。それを証拠に、1959年から1962年までの間に出演した台本の数は、47冊もありました。

その47本の映画の内、15本は和田浩治さんとの共演になります。手元に残っているスチール写真のほとんどが、ヒデ坊と共演したものですから、いかに共演数が多かったのかを物語っています。おそらく日活では、ヒデ坊を第二の石原裕次郎として育てたいということで、シリーズものを作って売り出したのではないでしょうか。今思えば、ちょうどそのタイミングで、私も積極的に登用され始めていましたので、都合よくコンビとして成立したのではないかと思っています。

当時の娯楽の中心は間違いなく映画でしたから、まずは面白さが要求されていました。更に、人々がワクワクするようなものであること、キラキラしていて羨むようなものであることが求められていました。ですから、日活の無国籍映画がもてはやされたのでしょうね。御多分に洩れず、ヒデ坊とのシリーズものは、荒唐無稽で漫画的な内容のものが多かったように思います。

睡眠時間も限られ、忙しく仕事をしている日常を送る中で「自分自身は何者なのか?」と、思い始めたのは1961年頃でしたでしょうか。自分は果たしてこのままでよいのだろうかと、疑問を抱き始めるようになったのです。

(後編に続きます)

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